天正遣欧少年使節(日本外交史外伝)
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左上端から時計まわりに:中浦ジュリアン、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ。中央は終始付き添ったメスキータ師。
天正遣欧少年使節
(1582〜1590)

キリシタン大名とイエズス会の命によって、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人の少年がヨーロッパに派遣され、スペイン・ポルトガル国王とローマ教皇に謁見するなど、当時ヨーロッパに大きな話題を振りまいた。この天正遣欧使節団についての特集です。彼らこそ初めてヨーロッパに渡った日本人であり、またヨーロッパに住む人たちにとっても初めて目にした日本人であった。
参考資料
日・欧の背景
15世紀以来、ヨーロッパでは大航海時代が始まり、ポルトガル、スペイン、イギリス、イタリアなど列強諸国はアフリカ、南北アメリカ、アジアに次々と進出。各地を植民地化していった。また同じ頃にルターやカルヴァンの指導で起こった宗教改革によって、"旧勢力"のカトリックはプロテスタントなどの新教側に圧迫されたため、布教の新天地をこれら非ヨーロッパ諸国に求めていた。1549年、イエズス会のザビエルが来日、日本での布教を始めて以来、キリスト教は急速に日本に広まった。山口の大内義隆をはじめ、豊後の大友宗麟(義鎮)、肥前の有馬晴信高山右近小西行長ら有力大名が次々と入信。彼らはキリシタン大名と呼ばれ、キリスト教を厚く庇護した。ザビエルの後を継いだビレラルイス・フロイスらは将軍足利義輝や織田信長から布教の許可を貰い安土に南蛮寺を建てるなど本格的な布教に乗り出した。1579年にはイエズス会の宣教師・バリニャーノが来日。大友宗麟の茶席に呼ばれたバリニャーノは、宗麟が難解な「禅」を理解する知識人であり、キリスト教の神学論をも解釈したのを知って、これまで彼の見てきた他のどこの国の民族よりも日本人が優れた民族であることを悟る。そして先任のカブラルが日本人を侮蔑し差別的な扱いをしているのを批判、彼と代わって本格的な布教を開始。1580年には宣教師教育機関であるセミナリオ、コレジオ、ノビシャドなどを設立、西洋人には日本語を、日本人には外国語と神学を学習させ、優秀な人材の育成に務めた。

まもなく、バリニャーノはこれらの成果をローマ教皇や本国の王に示したいと考え、日本の大名または貴族を直接ヨーロッパに遣わすことを思いつく。彼は大友、大内、有馬の3大名に諮るが、その結果、彼らの名代を選んで使節としてヨーロッパに送ることを決定した。

使節に選ばれた4人とは
バリニャーノは長崎・島原半島に設立したキリスト教の学校・セミナリオの第一期生22人の中から4人を選んだ。セミナリオでは毎日7時間近く神学やラテン語を講義していたが、その中でも成績が優秀でいずれも13歳から14歳の少年で、キリシタン大名と密接な関係のある者であった。
正使・伊東マンショ:日向の領主・伊東氏の一族に生まれた。しかし8歳の時薩摩・島津氏との戦いに破れ落城、父を失い孤児となり、遠縁だった大友宗麟の領地に逃れ、そこで宣教師に出逢い、洗礼を受けた。
正使・千々石ミゲル:生まれてすぐに千々石の領主だった父が戦死。母と共に従兄のキリシタン大名・有馬氏のもとで育つ。
副使・中浦ジュリアン:小佐々水軍の一族に生まれるが、父が戦死し大村氏のもとで育つ。
副使・原マルチノ:キリシタン大名大村氏の家来・原中務の子で大村の地で育つ。
以上のように4人はすべてキリシタン大名大友宗麟有馬晴信大村純忠の縁者であり、実に4人のうち3人が戦で父を失っているという境遇の者たちだった。

使節団の目的
バリニャーノの手紙によると「使節派遣の目的のひとつはキリスト教の栄光と偉大さを日本人に分からせること。そして少年たちに進んだ西洋世界を見せることで日本での布教活動をよりスムーズにさせるためである」としている。13、4歳の少年を選んだのは、「若い少年たちは好奇心が強く、より吸収が早い。何年にも及ぶであろう過酷な旅にも耐えられ、帰国後はより長く布教活動が続けられるだろう」という理由からである。

渡欧から帰国までの出来事などを時系列で紹介(日付は西暦)
1534年スペインでイエズス会創立
1549年フランシスコ・ザビエル来日、日本にキリスト教を広める
1579年7月25日、バリニャーノ来日、この年にはキリシタンは推定10万人。
1580年バリニャーノ、長崎・有馬、近江国・安土にセミナリオを創立
1581年バリニャーノ、織田信長と謁見。信長に気に入られ、信長から、天皇にも譲らなかったという屏風をイエズス会に贈られる。
1582年この年にはキリシタンは15万人に及ぶ。
2月20日、天正遣欧使節団、長崎を出港。ポルトガルの大型帆船で乗組員正使・副使の4少年以外の日本人随行員、イエズス会の宣教師、船員ら総勢300人に及んだ。
船中では激しい船酔いに苦しむ。バリニャーノは彼らを励まし続けた。また、ラテン語の勉強、西洋楽器の演奏、ヨーロッパ式のマナーやルールなどを学んだ。
3月9日マカオ着。少年らにとってはここが初めての外国。しばらく滞在し風を待つ。
6月21日、本能寺の変で織田信長が暗殺され、まもなく豊臣秀吉が天下を取る。もちろん少年らはこれらの事実を知らない。
1583年12月20日マラッカ・コチンをへて、インド・ポルトガル領ゴア着。ゴアではイエズス会の命によりバリニャーノがこの地にインド管区長として留まることになり、一行は泣く泣く別れ、後はヌーノ・ロドリゲス神父に従う。 ゴアを出港、アフリカ南端の喜望峰を回り、大西洋を北上する間、船上で疫病が発生し、30人ほどが死亡した。
1584年8月11日、ポルトガル・リスボンに到着。アルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)の王宮に招かれる。
11月14日、スペイン・マドリードに到着。イスパニア(スペイン)・ポルトガル国王フェリペ2世に招かれる。一行は帯刀し・袴・足袋・草履という武士の正装(首周りだけはヨーロッパのマナーとして襟を着用)で王の差し向けられた豪華な馬車に乗って王宮に向かった。国王・皇太子・内親王らが並ぶ謁見の間で、マンショはしきたり通り跪いて王の手に接吻の礼を行おうとしたが、王はマンショを立たせ抱きしめた。続いて他の3人にも抱擁をした。当時のフェリペ2世は世界を制した絶対君主として恐れられた人物であったが、この異例の振る舞いに立ち会ったすべての人々は驚愕した。王は彼らの服装に興味を持ち、特に草履は手にとってしげしげと見つめた。続いてマンショから渡された刀を持ち、その鍛えられた刀の技術と、鞘の細工の精密さに瞠目し、日本の文化の高さを認識した。正使であったマンショ・ミゲルは宗麟・大村・有馬両氏から国王に送られた書状を日本語で読み上げ、その書を国王に渡した。王は文字が縦書きであったことに非常に驚いたとされる。
1585年3月1日 一行はイタリア・フィレンツェに到着。メディチ家の舞踏会に招待され、マンショは后に踊りに誘われる。「時々間違えたが、人々は喝采を与えた」と記録に残る。

3月22日、一行はローマに到着。翌3月23日ローマ教皇グレゴリウス13世と謁見の儀式が行われる。しかしジュリアンは直前に急に高熱が出て倒れ、一人では立てないほどの重病に陥った。必死に教皇との面会を訴えるジュリアンに心動かされた神父たちは、彼だけを輿に乗せ、儀式の前に密かに教皇と引き会わせた。教皇は彼を温かく迎え、主治医に手厚く治療をするように指示した。こうしてジュリアンは儀式に参加することは出来なかったが、特別な待遇を得ることができた。

ジュリアンを除く一行はまずローマの北にあるポポロ門から市内に入る(この門からの入城は国賓や大使に限られていた。特別の措置である)。歓迎のため市内では数百人ものパレードが行われ、町の沿道の窓という窓には歓迎の垂れ幕が飾られていた。市内の砦からは300発の祝砲が鳴り響いた。バチカン宮殿・サンピエトロ大聖堂には全欧の枢機卿全員が並ぶ中、ジュリアン以外の3少年が教皇の前に跪いて挨拶をした。教皇は涙を流しながら彼らを讃え、手を取り抱きしめた。これは異例中の異例のことだった。
この日本からの使節の訪問は当時のローマとカトリック世界にとっては画期的な「事件」であり、歴史的な出来事であった。この「事件」について出版された本は当時約50冊に及ぶ。

このわずか数週間後の4月10日、グレゴリウス13世が死去。最期まで「日本の少年たちはどうしているか?」と気遣っていたといわれる。

5月1日、少年使節、グレゴリオ13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席。この時の行幸図がバチカン宮殿内の壁画「ラテラノ教会行幸図」として残されているが、4人の少年もちゃんと描かれている。

5月29日 ローマ議会で市民権を腸わる

6月3日、ローマを出発。以後ベネチア、ヴェローナ、ミラノ、ジェノバなどの諸都市を訪問。
1586年4月13日、リスボンを出発。帰路につく。
1587年5月29日、インドのゴアに到着。バリニャーノと再会。バリニャーノ、ここで少年たちとの対話を記録した『デ・サンデ天正遣欧使節記』を執筆。
6月4日、コレジオにおいて、イエズス会員ら関係者の前で原マルチノの感謝の演説がラテン語で行われる。「日本人は神父様を及び申し、待ち焦がれております。ちょうど風も無く海も静かです。港は開いています。さあ、ご一緒に出かけましょう」と結んでいる。この演説は、彼らがヨーロッパから持ち帰ったグーテンベルクの印刷機によって翌1588年に出版された。この書物が、日本人が印刷した初めての活版印刷物である。
6月、長崎で大村純忠が病死。秀吉の九州征伐の最中、大友宗麟も相次いで病死。
7月24日、豊臣秀吉、博多でバテレン追放令を発令。
1589年秀吉、安土の南蛮寺を破壊。
1590年一行、マカオで宗麟・純忠の死と豊臣秀吉のバテレン追放令の公布を聞き愕然とする。バリニャーノはインド副王使節の名目で、また使節が各地で贈られた豪華な品々を秀吉に贈呈することを画策。これが秀吉の心を和らげ、秀吉から応諾を得て帰国することができた。

7月21日、実に8年半ぶりに帰国。20歳を越えていた彼らはたくましく成長しており、母も息子を見間違えるほどだったという。遣使者として唯一健在していた有馬晴信の歓待を受けた。
1591年3月3日、京都の聚楽第で豊臣秀吉と謁見。この様子をルイス・フロイスが記録している。
秀吉「(マンショに)余に仕える気持ちがあれば十分な俸禄を与えるぞ」
マンショ「私はバリニャーノ神父にわが子のように育てられました。師のもとを去っては恩を忘れたことになります。」
秀吉「なるほど、その通りだ。」
次に秀吉はミゲルにこう尋ねた
「汝は有馬家のものか?」
ミゲルは有馬家に迷惑になると考え、「千々石の出身です」と答えた。
秀吉は「千々石は有馬殿の領地である、有馬家の親戚か?」
ミゲルは仕方なく「父が遠縁のようです」と答えたが秀吉は「彼ら九州の諸侯はバテレンと親しく交わっているようだな…」と感想を述べている。
4人は西洋から持ち帰った楽器でジョスカン・デ・プレの曲を演奏。秀吉は大いに喜び「汝らが日本人であることをうれしく思うぞ」と終始ご機嫌であった。
4人は、秀吉がバテレン追放令を出していたのは知っていたが、ミゲルがローマに宛てた手紙によれば、自分たちがローマの話をすれば秀吉も分かってくれるものと信じていたようだ。しかし、秀吉のバテレン追放政策はこの後さらに厳しくなっていった。
1593年4人は長崎・天草河内浦の修練院に入り神父になるための勉強を続け、ここで7月25日、イエズス会に正式入会。
1596年土佐でサン・フェリペ号事件が起こり、イスパニアの乗組員が「イスパニアはまず宣教師を派遣して住民を手なずけ、次いで軍隊を送って領土を占領する」と失言したことを聞いた秀吉が怒り、宣教師・信者への取締まりが一層厳しくなる。
1597年秀吉、長崎で26人の宣教師と信者を磔にする(二十六聖人の殉教)。
1598年秀吉、死去。
1600年徳川家康、関ヶ原の戦いで勝利、以後征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。
オランダのリーフデ号が豊後に漂着。乗組員のヨーステンアダムスが家康の顧問に。ヨーロッパとの貿易の中心がオランダに移る。
1601年伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノは神学を学ぶため、マカオのコレジオに留学。この時点で千々石ミゲルは脱会。千々石清左衛門と名乗り、大村喜前(よしあき)に仕え、なんとキリスト教を棄てたばかりか、地元のキリシタンを弾圧する側に回っていた。何故あれほど熱心な信者だった彼が棄教したのか、またその後のミゲルの人生も不詳である。ただ、秀吉との謁見でキリシタンでいることを危険だと察したとも、イエズス会に不満があったともいわれている。また結婚して子を儲けているが、妻の素性や生活の様子もよくわかっていない。イエズス会のルセーナ神父の記録には「仕えていた大村家でたびたび殺されそうになり、いとこの有馬家に身を寄せたがそこでも大怪我を負わされ、今は異端者として暮らしている」と伝えており、大村藩・キリシタンの両陣営から追われて苦しい生活を送っていたことは想像される。2003年、息子・玄蕃により建てられた清左衛門夫妻の墓と思われるものが長崎県諫早市で見つかるが真偽は定かでない。島原の乱の首謀者・天草四郎時貞は、千々石ミゲルの子という説もある。
1608年伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階される。マルチノは長崎で布教を続ける。
1612年伊東マンショ、長崎で病死、家康、天領に禁教令。
1614年徳川幕府、最初の禁教令。宣教師は追放、教会はすべて焼き打ちとなる。原マルチノ、マカオに脱出
1619年京都で52人のキリシタンが火あぶりの刑になる(京都の大殉教)。
1622年長崎で55人のキリシタンが処刑される(元和の大殉教)
1629年原マルチノ、マカオで病死
1633年江戸幕府最初の鎖国令(奉書船以外の海外渡航を禁止)発布。
1634年中浦ジュリアン、弾圧の中で潜伏しつつ布教を続けるが長崎でついに捉えられる。穴吊りの刑になり、棄教を迫られる。こめかみに穴を開けられ、逆さに吊るされ、三日三晩の苦しみの末、遂に息絶えた。最期の言葉は「われこそはローマを見た中浦ジュリアンである」と伝えられている。長崎の日本二六聖人記念館には潜伏中のジュリアンがローマに宛てた手紙が残されている。そこには「私のいる口之津では、もう20人もの殉教者が出ました。私の慰めはかつて聖なる都ローマから受けた愛に満ちた恵みだけです」とある。
1637年島原の乱。以後、キリシタンはほぼ日本では一掃される


関係者

バリニャーノ「日本史に登場する外国人」をご参照ください

大友宗麟「外国に渡った日本人」をご参照ください

有馬晴信「外国に渡った日本人」をご参照ください

大村純忠「外国に渡った日本人」をご参照ください

フェリペ2世(1527〜1598)
スペイン国王でポルトガルも併合し両国王となる。イングランド女王やフランス国王の娘と結婚し、全ヨーロッパのみならず、世界の制海権を握りアフリカ・インド・アジア・南米に広大な植民地を有する専制君主であった。「フィリピン」の国名は彼の名に因む。また、熱心なカトリック信者でありバチカンを支援していた。

グレゴリウス13世(ローマ教皇)(1502〜1585)
在位は1572〜1585)16世紀の反宗教改革運動と教会の内部改革を行った。1582年、従来のユリウス暦を改め新しい暦「グレゴリオ暦」を採用(これは現在まで世界各国で採用されている西暦である)。日本の4少年と接見した時は83歳という高齢であった。

ジョルジェ・ロヨラ(?〜1589)
日本人の修道士だが日本名は不明。使節の少年たちとほぼ同年代で教育係としてヨーロッパに同行した。リスボンで印刷技術を学ぶ。使節に伴って帰国の途中、マカオで秀吉のバテレン追放令を知り足止めを食らう。1589年9月、そのマカオで客死した。









大友宗麟 (人物叢書)

少年が歴史を開いた―伊東マンショ・その時代と生涯 (みやざき文庫 51)

千々石ミゲルの墓石発見―天正遣欧使節 (長崎文献社の歴史叢書)























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日本史(外交史概略)V 幕末〜明治へ


外国に渡った日本人(古代〜幕末)外国に渡った日本人(明治〜現代)
日本と関わりの深い外国人明治期に来日した外国人

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特集:
外国人が見る日本と日本人(前編)

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