| 1534年 | スペインでイエズス会創立 |
| 1549年 | フランシスコ・ザビエル来日、日本にキリスト教を広める |
| 1579年 | 7月25日、バリニャーノ来日、この年にはキリシタンは推定10万人。 |
| 1580年 | バリニャーノ、長崎・有馬、近江国・安土にセミナリオを創立 |
| 1581年 | バリニャーノ、織田信長と謁見。信長に気に入られ、信長から、天皇にも譲らなかったという屏風をイエズス会に贈られる。 |
| 1582年 | この年にはキリシタンは15万人に及ぶ。 2月20日、天正遣欧使節団、長崎を出港。ポルトガルの大型帆船で乗組員正使・副使の4少年以外の日本人随行員、イエズス会の宣教師、船員ら総勢300人に及んだ。 船中では激しい船酔いに苦しむ。バリニャーノは彼らを励まし続けた。また、ラテン語の勉強、西洋楽器の演奏、ヨーロッパ式のマナーやルールなどを学んだ。 3月9日マカオ着。少年らにとってはここが初めての外国。しばらく滞在し風を待つ。 6月21日、本能寺の変で織田信長が暗殺され、まもなく豊臣秀吉が天下を取る。もちろん少年らはこれらの事実を知らない。 |
| 1583年 | 12月20日マラッカ・コチンをへて、インド・ポルトガル領ゴア着。ゴアではイエズス会の命によりバリニャーノがこの地にインド管区長として留まることになり、一行は泣く泣く別れ、後はヌーノ・ロドリゲス神父に従う。 ゴアを出港、アフリカ南端の喜望峰を回り、大西洋を北上する間、船上で疫病が発生し、30人ほどが死亡した。 |
| 1584年 | 8月11日、ポルトガル・リスボンに到着。アルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)の王宮に招かれる。
11月14日、スペイン・マドリードに到着。イスパニア(スペイン)・ポルトガル国王フェリペ2世に招かれる。一行は帯刀し・袴・足袋・草履という武士の正装(首周りだけはヨーロッパのマナーとして襟を着用)で王の差し向けられた豪華な馬車に乗って王宮に向かった。国王・皇太子・内親王らが並ぶ謁見の間で、マンショはしきたり通り跪いて王の手に接吻の礼を行おうとしたが、王はマンショを立たせ抱きしめた。続いて他の3人にも抱擁をした。当時のフェリペ2世は世界を制した絶対君主として恐れられた人物であったが、この異例の振る舞いに立ち会ったすべての人々は驚愕した。王は彼らの服装に興味を持ち、特に草履は手にとってしげしげと見つめた。続いてマンショから渡された刀を持ち、その鍛えられた刀の技術と、鞘の細工の精密さに瞠目し、日本の文化の高さを認識した。正使であったマンショ・ミゲルは宗麟・大村・有馬両氏から国王に送られた書状を日本語で読み上げ、その書を国王に渡した。王は文字が縦書きであったことに非常に驚いたとされる。 |
| 1585年 | 3月1日 一行はイタリア・フィレンツェに到着。メディチ家の舞踏会に招待され、マンショは后に踊りに誘われる。「時々間違えたが、人々は喝采を与えた」と記録に残る。
3月22日、一行はローマに到着。翌3月23日ローマ教皇グレゴリウス13世と謁見の儀式が行われる。しかしジュリアンは直前に急に高熱が出て倒れ、一人では立てないほどの重病に陥った。必死に教皇との面会を訴えるジュリアンに心動かされた神父たちは、彼だけを輿に乗せ、儀式の前に密かに教皇と引き会わせた。教皇は彼を温かく迎え、主治医に手厚く治療をするように指示した。こうしてジュリアンは儀式に参加することは出来なかったが、特別な待遇を得ることができた。
ジュリアンを除く一行はまずローマの北にあるポポロ門から市内に入る(この門からの入城は国賓や大使に限られていた。特別の措置である)。歓迎のため市内では数百人ものパレードが行われ、町の沿道の窓という窓には歓迎の垂れ幕が飾られていた。市内の砦からは300発の祝砲が鳴り響いた。バチカン宮殿・サンピエトロ大聖堂には全欧の枢機卿全員が並ぶ中、ジュリアン以外の3少年が教皇の前に跪いて挨拶をした。教皇は涙を流しながら彼らを讃え、手を取り抱きしめた。これは異例中の異例のことだった。 この日本からの使節の訪問は当時のローマとカトリック世界にとっては画期的な「事件」であり、歴史的な出来事であった。この「事件」について出版された本は当時約50冊に及ぶ。
このわずか数週間後の4月10日、グレゴリウス13世が死去。最期まで「日本の少年たちはどうしているか?」と気遣っていたといわれる。
5月1日、少年使節、グレゴリオ13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席。この時の行幸図がバチカン宮殿内の壁画「ラテラノ教会行幸図」として残されているが、4人の少年もちゃんと描かれている。
5月29日 ローマ議会で市民権を腸わる
6月3日、ローマを出発。以後ベネチア、ヴェローナ、ミラノ、ジェノバなどの諸都市を訪問。
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| 1586年 | 4月13日、リスボンを出発。帰路につく。 |
| 1587年 | 5月29日、インドのゴアに到着。バリニャーノと再会。バリニャーノ、ここで少年たちとの対話を記録した『デ・サンデ天正遣欧使節記』を執筆。 6月4日、コレジオにおいて、イエズス会員ら関係者の前で原マルチノの感謝の演説がラテン語で行われる。「日本人は神父様を及び申し、待ち焦がれております。ちょうど風も無く海も静かです。港は開いています。さあ、ご一緒に出かけましょう」と結んでいる。この演説は、彼らがヨーロッパから持ち帰ったグーテンベルクの印刷機によって翌1588年に出版された。この書物が、日本人が印刷した初めての活版印刷物である。 6月、長崎で大村純忠が病死。秀吉の九州征伐の最中、大友宗麟も相次いで病死。 7月24日、豊臣秀吉、博多でバテレン追放令を発令。 |
| 1589年 | 秀吉、安土の南蛮寺を破壊。 |
| 1590年 | 一行、マカオで宗麟・純忠の死と豊臣秀吉のバテレン追放令の公布を聞き愕然とする。バリニャーノはインド副王使節の名目で、また使節が各地で贈られた豪華な品々を秀吉に贈呈することを画策。これが秀吉の心を和らげ、秀吉から応諾を得て帰国することができた。
7月21日、実に8年半ぶりに帰国。20歳を越えていた彼らはたくましく成長しており、母も息子を見間違えるほどだったという。遣使者として唯一健在していた有馬晴信の歓待を受けた。
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| 1591年 | 3月3日、京都の聚楽第で豊臣秀吉と謁見。この様子をルイス・フロイスが記録している。 秀吉「(マンショに)余に仕える気持ちがあれば十分な俸禄を与えるぞ」 マンショ「私はバリニャーノ神父にわが子のように育てられました。師のもとを去っては恩を忘れたことになります。」 秀吉「なるほど、その通りだ。」 次に秀吉はミゲルにこう尋ねた 「汝は有馬家のものか?」 ミゲルは有馬家に迷惑になると考え、「千々石の出身です」と答えた。 秀吉は「千々石は有馬殿の領地である、有馬家の親戚か?」 ミゲルは仕方なく「父が遠縁のようです」と答えたが秀吉は「彼ら九州の諸侯はバテレンと親しく交わっているようだな…」と感想を述べている。 4人は西洋から持ち帰った楽器でジョスカン・デ・プレの曲を演奏。秀吉は大いに喜び「汝らが日本人であることをうれしく思うぞ」と終始ご機嫌であった。 4人は、秀吉がバテレン追放令を出していたのは知っていたが、ミゲルがローマに宛てた手紙によれば、自分たちがローマの話をすれば秀吉も分かってくれるものと信じていたようだ。しかし、秀吉のバテレン追放政策はこの後さらに厳しくなっていった。 |
| 1593年 | 4人は長崎・天草河内浦の修練院に入り神父になるための勉強を続け、ここで7月25日、イエズス会に正式入会。
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| 1596年 | 土佐でサン・フェリペ号事件が起こり、イスパニアの乗組員が「イスパニアはまず宣教師を派遣して住民を手なずけ、次いで軍隊を送って領土を占領する」と失言したことを聞いた秀吉が怒り、宣教師・信者への取締まりが一層厳しくなる。 |
| 1597年 | 秀吉、長崎で26人の宣教師と信者を磔にする(二十六聖人の殉教)。 |
| 1598年 | 秀吉、死去。 |
| 1600年 | 徳川家康、関ヶ原の戦いで勝利、以後征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。 オランダのリーフデ号が豊後に漂着。乗組員のヨーステン、アダムスが家康の顧問に。ヨーロッパとの貿易の中心がオランダに移る。 |
| 1601年 | 伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノは神学を学ぶため、マカオのコレジオに留学。この時点で千々石ミゲルは脱会。千々石清左衛門と名乗り、大村喜前(よしあき)に仕え、なんとキリスト教を棄てたばかりか、地元のキリシタンを弾圧する側に回っていた。何故あれほど熱心な信者だった彼が棄教したのか、またその後のミゲルの人生も不詳である。ただ、秀吉との謁見でキリシタンでいることを危険だと察したとも、イエズス会に不満があったともいわれている。また結婚して子を儲けているが、妻の素性や生活の様子もよくわかっていない。イエズス会のルセーナ神父の記録には「仕えていた大村家でたびたび殺されそうになり、いとこの有馬家に身を寄せたがそこでも大怪我を負わされ、今は異端者として暮らしている」と伝えており、大村藩・キリシタンの両陣営から追われて苦しい生活を送っていたことは想像される。2003年、息子・玄蕃により建てられた清左衛門夫妻のものと思われる墓が長崎県諫早市で見つかるが真偽は定かでない。島原の乱の首謀者・天草四郎時貞は、千々石ミゲルの子という説もある。 |
| 1608年 | 伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階される。マルチノは長崎で布教を続ける。 |
| 1612年 | 伊東マンショ、長崎で病死、家康、天領に禁教令。 |
| 1614年 | 徳川幕府、最初の禁教令。宣教師は追放、教会はすべて焼き打ちとなる。原マルチノ、マカオに脱出 |
| 1619年 | 京都で52人のキリシタンが火あぶりの刑になる(京都の大殉教)。 |
| 1622年 | 長崎で55人のキリシタンが処刑される(元和の大殉教) |
| 1629年 | 原マルチノ、マカオで病死 |
| 1633年 | 江戸幕府最初の鎖国令(奉書船以外の海外渡航を禁止)発布。 |
| 1634年 | 中浦ジュリアン、弾圧の中で潜伏しつつ布教を続けるが長崎でついに捉えられる。穴吊りの刑になり、棄教を迫られる。こめかみに穴を開けられ、逆さに吊るされ、三日三晩の苦しみの末、遂に息絶えた。最期の言葉は「われこそはローマを見た中浦ジュリアンである」と伝えられている。長崎の日本二六聖人記念館には潜伏中のジュリアンがローマに宛てた手紙が残されている。そこには「私のいる口之津では、もう20人もの殉教者が出ました。私の慰めはかつて聖なる都ローマから受けた愛に満ちた恵みだけです」とある。 |
| 1637年 | 島原の乱。以後、キリシタンはほぼ日本では一掃される |
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