| 名 | (生年〜没年)解説 | おススメ資料 |
司馬遷 (しばせん) | (BC145〜BC86) 中国・前漢の歴史家。中国正史の第一に数えられる『史記』(130巻)を執筆・紀伝体を完成させた。太史令の司馬談を父に持ち、幼少から学者としての教育を受け、20歳の時に武帝に仕えた。父の死後36歳で太史令を引き継ぎ『史記』の執筆を任される。しかし紀元前29年、匈奴との戦いで敗北し匈奴へ投降した友人の李陵を弁護したため武帝の怒りに触れ宮刑(去勢される刑)に処される。紀元前91年ごろ『史記』はその苦悩の中で完成した。『史記』には秦の始皇帝時代に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け日本と思われる国に船出した徐市(徐福)の記述がある。これが日本とすれば「日本」が歴史上著述された最初。
| 武田泰淳著『司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫) 』 |
始皇帝 (しこうてい) | (BC259〜BC210) 中国秦第31代皇帝。13歳で秦王に即位、その後戦国時代の6国を滅ぼし秦統一帝国初代皇帝となった。度量衡制・文字の統一、郡県制を敷くなど中央集権を確立。また世界最古の運河霊渠や万里の長城、始皇帝陵の建築など巨大土木建築事業なども行った。専制君主として知られ儒教を弾圧し焚書坑儒を行った。『史記』によれば徐市(徐福)の提案を受け、不老不死の薬を求めて日本に徐市(徐福)らを派遣したとされる。 | |
徐市(徐福) (じょいち・じょふく) | (BC.278?〜) 中国・秦(紀元前3世紀頃)の方士。『史記・秦始皇本紀二十八年(紀元前219)の条』によると始皇帝に「東方の三神山(日本の蓬莱・方丈・瀛洲)に長生不老の霊薬がある」と具申し、膨大な資金を得て旅立った。しかし9年後に何も得るものもなく帰国し、その際は皇帝に「大鮫に邪魔されてたどり着けないので、射手を用意していただきたい」と願い出、紀元前219年、再び皇帝から三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出した。しかしたどり着いた東方の島で「平原広沢」を得て王となり戻らなかったとの記述がある。実在しない伝説の人物との説や、徐福=神武天皇説など日本・中国で様々な「徐福伝説」があるが、日本の和歌山県などにもいたるところに徐福がたどり着いたという言い伝えが残されており、また中国には徐福の子孫が住む「徐福村」もあり、謎の人物である。 | 不老を夢みた徐福と始皇帝―中国の徐福研究最前線
徐福論―いまを生きる伝説 ―(新典社選書) (新典社選書)
真説「徐福伝説」―謎に包まれた「日本人の祖先」の実像 |
弓月君 (ゆづきのきみ) | (?) 『日本書記』に記述がある渡来人で始皇帝の後裔とされる。百済から百二十県の民を率いて来日し、養蚕・機織の技術をもって応神天皇の朝廷に仕えたとされる。子孫は山城国太秦に本拠を持つ秦氏になった。 | シルクロード渡来人が建国した日本―秦氏、蘇我氏、藤原氏は西域から来た |
司馬達等 (しばたっと) | (?) 『扶桑略記』によると522年、朝鮮半島から渡来したと思われる人物で、鞍部村主(くらつくりのすぐり)という異名もある通りもともとは馬具等を作る工人であったとされている。仏教の公な輸入前に仏教を信仰しており、飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝し、蘇我馬子らが邸宅内に仏殿を建立した際には仏舎利を献上し仏教普及を後押ししたとされる。司馬達等の孫は有名な鞍作鳥(止利仏師)で、その子孫が鞍作氏となった。 | 扶桑略記・帝王編年記 (新訂増補 国史大系) |
 好太王(広開土王) (こうたいおう・こうかいどおう) | (374〜412) 朝鮮・高句麗の第19代の王。高句麗の基礎を築き、後燕と戦い、新羅を助けて百済と戦った。404年朝鮮半島を北上してきた倭軍(日本軍)を破ったとされる。 1883年、陸軍中尉酒匂景信によって石碑が発見され参謀本部によって碑文が発表された。そこには「倭が百済を破った云々」とあり長く信じられてきたが、朝鮮の学者の中には文章を「高句麗が百済を破った」と解釈できるという説や日本軍が朝鮮半島支配の正当性を強調するために碑そのものをでっちあげたという説もあり、真相は未だ謎である。 |
好太王碑論争の解明―改ざん説を否定する |
阿知使主 (あちのおみ) | (?) 『日本書記』に記述がある後漢の後裔。応神天皇20年に子・都加使主らとともに17県民を率いて来日。日本に帰化して朝廷に仕え、学問・文章を伝えたとされる。この子孫が東漢氏(やまとあやうじ)で大和地方南部を本拠地に各種の技術者集団を築いた。また | 現代語訳 日本書紀 (河出文庫) |
都加使主 (つかのおみ) | (?) 父阿知使主とともに中国から来日し帰化して朝廷に仕えたとされる学者。 | |
王仁 (わに) | (?) 応神天皇の頃、阿直岐に推薦されて百済から『論語』10巻と『千字文』を携えて来朝、帰化し日本に漢字と儒教を伝えたとされる人物。応神天皇の皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に儒教を教えたとされる。 | 漢字伝来 (岩波新書) |
阿直岐 (あちき) | (?) 『古事記』の応神天皇の巻に百済王の使者として来日し馬2頭を献上し、後に帰化したとある。天皇に王仁を推挙し来朝させた人物とあるが実在かどうかは不明。阿知使主と同一人物説もある。 | (調査中) |
煬帝 (ようだい) | (569〜618) 中国・隋第2代皇帝。父高祖文帝を殺して即位したと言われる。西域諸国を征服し隋を巨大帝国に築き上げた。また暴君として知られ、反対勢力への虐殺や百万人の民衆を酷使した大運河の建築などを行った。607年日本の聖徳太子の命を受け遣隋使小野妹子を受け入れたが、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」の文面で始まる対等外交を求める文書に激怒したとされる。しかし敵対する朝鮮・高句麗遠征を控えていたため外交に応じ、答礼使として裴世清を日本に遣わした。その後高句麗討伐に乗り出すも失敗、民衆の反感を買い、皇帝の権威は失われ、618年揚州巡幸の際に近衛兵に暗殺された。 | 宮崎市定著 『隋の煬帝 (中公文庫BIBLIO) 』
田中芳樹著 『隋唐演義〈2〉隋の煬帝ノ巻 (中公文庫) 』 |
裴世清 (はいせいせい) | (?) 隋の外交官。煬帝の命を受け、答礼使として小野妹子の帰朝に同行して来日。日本では大歓迎を受け、推古天皇や聖徳太子と謁見し煬帝の意向を伝えた。608年、小野妹子が再び遣隋使として高向玄理や南渕請安、僧・旻などの留学生も伴って隋に渡る時に共に帰国し、隋に日本の実情を報告した。 | (調査中) |
曇徴 (どんちょう) | 高句麗の嬰陽(えいよう)王の進献によって僧法定(ほうじょう)とともに来朝した僧侶。曇徴は五経に通じ、紙と墨・彩色の方法、さらに水車をつかった臼の製造技術ももたらしたといわれる(『日本書記』)。『聖徳太子伝暦』には聖徳太子が曇徴を斑鳩宮に招いて、その後法隆寺に住わせたとされるが不詳。
| (調査中) |
観勒 (かんろく) | 百済の僧。602年渡来して暦法や天文地理学、陰陽道を伝え、年月を記録する方法を教えた(『日本書記』)。朝廷は陽胡玉陳(やこのたまふる)・大友高聡・山背日立(やましろのひたて)などを選抜し観勒に師事させている。後に日本最初の僧正となり、僧侶たちの教育や統制に当たった。法隆寺経蔵には観勒の坐像がある。 | (調査中) |
鑑真 (がんじん) | (687〜763) 中国揚州出身の高僧。入唐僧の依頼によって日本に行くことを決意したが、当時の未熟な航海技術は命がけで、5回に渡る航海はすべて嵐などによって遭難し、その間に貴重な経典や仏像を失い、また鑑真自身も失明した。754年6回目でようやく来日を果たし、東大寺に戒壇を設け律宗を広めた。聖武天皇、光明皇后らを始め貴族・僧・庶民らが鑑真を慕って集まった。759年には唐招提寺を創立し亡くなるまでのおよそ5年間をここで過ごし、熱心に教えを説いた。
| 井上靖『天平の甍 』
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陳和卿 (ちんなけい) | (?) 宋の僧侶で工人。1182年、弟の陳仏寿と共に俊乗坊重源に招かれ、東大寺の再興、特に大仏の仏頭鋳造などに当たった。また『吾妻鏡』には将軍北条実朝に渡宋を勧め、船を建造するが進水に失敗しその後の消息は不明との著述がある。
| 吾妻鏡 1―現代語訳 (1) |
蘭渓道隆 (らんけいどうりゅう) | (1213〜1278) 宋の僧侶。1246年33歳の時、入宋した泉涌寺僧月翁智鏡の招きを受け来日。京都や鎌倉で宋風の本格的な臨済宗を広めた。後に鎌倉幕府執権北条時頼に招かれて鎌倉建長寺の開山となった。
| 『建長寺と鎌倉の精進料理―七百五十年受け継がれた建長けんちん汁の精神を家庭で活かす 』 |
無学祖元 (むがくそげん) | (1226〜1286) 宋の僧侶。1279年、北条時宗に招かれて鎌倉で蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。後に鎌倉円覚寺の開山となり、建長・円覚両寺で臨済宗の教えを広めた。
| 貫達人、荒牧万佐行著 『円覚寺 』 |
フビライ・ハン (忽必烈汗または世祖) | (1215〜1294) 元の第5代皇帝。初代皇帝ジンギス・カンの孫にあたる。朝鮮半島の高麗を支配に置いた後、日本(当時鎌倉時代・執権北条時宗)に通商を求めて使者を送ったが断られたため、2度に渡り大軍を日本に派兵し侵略を狙った(元寇)。またイタリアの商人マルコ・ポーロを貿易経済のブレインにした。
| 勝藤猛著 『フビライ汗 (中公文庫) 』
岡本好古著 『元の皇帝フビライ―大草原の虹 』 |
一山一寧 (いつさんいつねい) | (1247〜1317) 元寇後、日本を懐柔させるために元が送ってきた高僧。執権北条貞時は一時伊豆に幽閉したが後に建長寺に住まわせたとされる。
| 海音寺潮五郎著 『蒙古の襲来 (河出文庫) 』 |
趙良弼 (ちょうりょうひつ) | (1217〜1286) 元の秘書監。1271年、元の皇帝フビライの命を受け、国書を携え約百人の部下を連れて来日し大宰府に滞在した。趙以前に三度日本に使者が送られていたが鎌倉幕府・朝廷ともにこれをすべて黙殺したため、今回は高麗の使者ではなく元の正使として派遣された。しかしもたらされた国書は「元への服属」を命じる内容だったため、日本側は四ヶ月に渡って検討した結果さらにこれを無視することにした。その間趙は日本の実情を探り、「日本は征服するに値しない」などとフビライに報告したとされる。しかしフビライの日本征服の意志は強く、趙は1273年には再来日し、最後通牒ともいえる交渉を行った。こうして「元寇」が始まった。 | 網野善彦著 『蒙古襲来―転換する社会 (小学館文庫) 』
白石一郎著 『蒙古襲来―海から見た歴史 (講談社文庫) 』 |
杜世忠 (とせいちゅう) | (1241〜1275) 元の正使。文永の役の翌年1275年に下関に部下数人を引き連れ来日。元の軍艦は嵐によって全滅したわけだが、杜世忠が持参したフビライ皇帝の国書には負けを認めず「さらに大軍を送る」といった脅迫が書かれていたため、幕府(執権・北条時宗)は一行を捕らえて大宰府から鎌倉に送り、龍ノ口で斬首し元への抵抗を示した。1276年には元は周福を正使とする一行を送るが、今度は博多で全員斬り捨て、元寇に備えることになった。 | 渡辺邦男監督、長谷川一夫主演の大映映画 『日蓮と蒙古大襲来 』
童門冬二著 『決断―蒙古襲来と北条時宗 』 |
洪武帝 (こうぶてい または朱元璋) | (1328〜1398) 明の初代皇帝(太祖)。貧農の生まれで餓死寸前の身から、やがて兵士として頭角を現し、元を倒して中国の皇帝にまで登りつめた立身伝説の男。皇帝となってからは独裁政治を行い臣下や民衆から畏れられた。日本に使者を送り、倭寇の取締りを求めた。
| 呉ヨ、堺屋太一著 『超巨人・明の太祖朱元璋 (講談社文庫) 』 |
宋希m (そうきけい) | (1376〜1446) 応永の外寇後1420年に来日した朝鮮の大使。朝鮮王・世宗に報告するために日本を中傷・侮辱した内容で書いた詩文集『老松堂日本行録』には当時の日本の様子が詳細に記録されている。
| 『老松堂日本行録―朝鮮使節の見た中世日本 (岩波文庫) 』 |
 マルコ・ポーロ Marco Polo | (1254〜1324) 伊ベネチア出身の貿易商人の子で日本のことを知った最初のヨーロッパ人。元が成立し広くヨーロッパまで支配しアジア=ヨーロッパ間の交流が盛んになった時代に、マルコが16歳の時、父と叔父に従ってベネチアを旅立ち、以後アジア諸国を25年に渡り旅をした。1274年、中国に着いた一行は元の皇帝フビライ・ハンに謁見しローマ法王からの手紙を渡した。その時フビライに気に入られたマルコは以後17年に渡ってフビライに仕えた。ベネチアに戻ったマルコはジェノバとの戦争に従軍して捕虜となり、牢獄で知り合った作家ルスチケロに彼がアジアで見聞きしたことを語った。ルスチケロは後にそれを『東方見聞録』にまとめ出版した。ここに「ジパングは大量の金がとれ国王の宮殿はすべて純金で覆われている。美しいバラ色の真珠やいろいろな宝石が取れる豊かな国である」ことなどが記されている。コロンブスはこの本を読み、憧れの「黄金の国ジパング」をめざして船出した。
| 『東方見聞録 (地球人ライブラリー) 』
陳舜臣著 『小説マルコ・ポーロ 』
フランシス・ウッド著 『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか 』 |
 コロンブス Christophorus Columbus | (1446?〜1506) イタリアの船乗り。若い頃からポルトガルやイギリスなどヨーロッパ諸国を航海し、30歳ごろに読んだマルコ・ポーロの『東方見聞録』の「黄金の国ジパング」に憧れ、地理学者トスカネリと文通して西回りでアジアに行けるという確信を持った。1492年スペイン王イザベラの支援を得て航海に乗り出し、困難な航海の末およそ40日で西インド諸島サンサルバドル島に到達した。その後4回に渡る航海でキューバ・ハイチ、南アメリカなどの島・新大陸を発見・開拓、コロンブスは総督に任じられたが、そこをインディアスと呼び、死ぬまでアジアの一部と信じていた。だが黄金や宝石は見つからずスペイン王から総督を罷免されるなど晩年は恵まれなかった。 | 『コロンブス航海誌 (岩波文庫) 』
宮崎正勝著 『ジパング伝説―コロンブスを誘った黄金の島 (中公新書) 』
サミュエル・エリオット・モリスン著 『大航海者コロンブス 世界を変えた男 (大航海者の世界) 』 |
フランシスコ・ゼイモト アントニオ・ダ・モッタ アントニオ・ペイショト | 1543年、明船に乗り、種子島に漂着し鉄砲を伝えたとされるポルトガル人商人(『鉄砲記』に「牟良叔舎」、「喜利志多佗孟太」との記述あり)。この時明の船には中国人・琉球人など百人ほどが乗っていたとされるが、儒生五峰(ごほう)の通訳でポルトガル人が鉄砲の実演を行い、その威力に驚いた領主種子島時堯・時尭親子が2挺を高価で買い上げた(若狭という若い女性を人身御供に使った、または彼らが要求したとも)。また、この時、パン、蒸しパン、樟脳、タバコ、鋏なども日本に伝えたといわれている。
| 石原結實著 『日本を変えた!種子島の鉄砲とザビエルの十字架―大航海時代の日本人の才智 』
宇田川武久著 『真説 鉄砲伝来 (平凡社新書) 』 |
フランシスコ・ザビエル Francisco de Xa'vier y Jasso | (1506〜1552) キリスト教を初めて日本に伝えたスペインの貴族出身の宣教師。19歳でパリに出てパリ大学に学び、ここでロヨラと出会い、1534年二人はイエズス会を作り生涯を神の教えを広げる決意をした。1541年ポルトガル国王の命でインドで布教をしていた時、薩摩出身の日本人アンジロウ(池端弥次郎)に出会い、彼の案内で1549年鹿児島を訪れ、大名島津貴久に会い、その後平戸(長崎)、山口、京都と布教をして回った。京都で後奈良天皇や将軍足利義輝に布教を願い出たが会う事も叶わず、1551年日本を後にした。再来日を望んだが、中国で客死した。しかし、彼の教えは山口の大名大内義隆、豊後の大名大友宗麟らばかりでなく、領民ら庶民にも多くの信者(キリシタン)を生んだ。 「鉄砲伝来」とともに日本にヨーロッパ文明を直接もたらし大きな影響を与えた重要な人物。 | 『聖フランシスコ・ザビエル全書簡〈1〉 (東洋文庫) 』
柳 広司著 『ザビエルの首 (講談社ノベルス) 』
ザビエル生誕500年記念シンポジウム委員会編 『ザビエルの拓いた道―日本発見、司祭育成、そして魂の救い― 』
栗栖 ひろみ著 『小説 フランシスコ・ザビエル 』
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フェルナンデス Joao Fernandes | (1525〜1567) ポルトガルの宣教師。1549年ザビエルとともに来日し鹿児島、山口、豊後、博多、広島、平戸などで布教活動を行った。 | (調査中) |
コスモ・デ・トレス (トルレス、トーレス) Cosme de Torres | (1510〜1570) スペイン出身のイエズス会宣教師。メキシコで布教後東南アジアに渡り、ザビエルと出会い影響を受け、イエズス会に入会。その後ザビエルとともに来日し布教に努めた。ザビエルが日本を去った後も残り、およそ18年に渡って山口や九州を中心に活動をした。1563年には大村純忠に洗礼を授け、南蛮貿易の拠点として長崎港の築港に尽力した。 | 長崎を開いた人 改訂版―コスメ・デ・トーレスの生涯 |
ガスパル・ビレラ (ヴィレラまたはヴィレイラ) Gaspar Vilela | (1525〜1572) ポルトガルの宣教師(イエズス会)。1556年豊後に来訪、長崎平戸を中心に布教を始める。仏教徒からの迫害を受けながらも苦労して多くの信者を得た。1559年にトレスの命を受け上京。元琵琶法師のロレンソ了斎の案内で将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受け、京都に教会を建て三好長慶や松永久秀らの庇護を得て本格的な布教活動を行った。1565年、義輝が殺されると京を追放となり、以後は畿内を中心に豊後、平戸、堺などで布教した。1570年には離日しインドで没した。高山友照、右近父子らの受洗を行った人物として知られる。本国やインドの宣教師らと交わした書簡は『耶蘇会士日本通信』として残され、当時の堺や京都の情勢が克明に描かれていて貴重な資料となっている。 | 村上直次郎訳・著 『耶蘇会士日本通信 (下巻) 』
大河ドラマになった城山三郎著『黄金の日日 (1978年) 』にも登場する。 |
アレッサンドロ・バリニャーノ (ヴァリニャーニ) Alessadro Valignani | (1530〜1606) イタリアのイエズス会の巡察師。19歳で法学博士になった秀才。1573年東洋伝道に出発し、中国などを経て1579年に日本の長崎に到着。織田信長・豊臣秀吉らの理解を得て来日している宣教師を統括し本格的な布教活動を指揮した。有馬・安土にセミナリヨ(神学校)、府内にコレジオ(大学)、臼杵にノビシャド(修練所)を設けた。また1582年大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らいわゆるキリシタン大名に勧めて天正遣欧使節をローマに派遣させた。 | 『日本巡察記(東洋文庫 229) 』 『東インド巡察記 (東洋文庫) 』
松田毅一著 『ヴァリニャーノとキリシタン宗門 』
ヴィットリオ・ヴォルピ, 原田 和夫著 『巡察師ヴァリニャーノと日本 』 |
グネッキ・ソルディ・オルガンティノ (ニエッキ・ソルド・オルガンティーノ) Gnecchi Soldo Organtino | (1530〜1606) イタリアの宣教師。1570年来日。ルイス・フロイスと共に京都で布教をした。1576年には京都に「南蛮寺」を建て、織田信長の許可を得て安土にセミナリヨを建てるなど勢力的に活動をしたが、秀吉の時代になって禁教令が敷かれてからは迫害を受け、高山右近や小西行長の庇護を受け小豆島や九州など地方での地道な布教をした。1591年、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされた。徳川幕府開府後は長崎で活動しこの地で死去した。 | (調査中) |
フランシスコ・カブラル Francisco Cabral | (1530〜1606) ポルトガルの宣教師。トレスの後任として1570年に天草に上陸。日本の布教区責任者となりオルガンティノとともに布教に当たった。しかし、日本人に対しては終始差別的に接したため、後に来日したバリニャーノから批判され解任された。 | 山本兼一著 『ジパング島発見記 』 |
ガスパール・コエリョ Gaspar Coelho | (1530〜1606) ポルトガルの宣教師。1572年に来日し当初は主に九州地方で布教にあたった。1586年には畿内の巡察を行い、豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得た。しかし翌1587年、秀吉がバテレン追放令を発布、コエリョらに対して排斥を行ったため、長崎平戸に活動の場を移し、この地で亡くなった。 | (調査中) |
李舜臣 (いすんしん) | (1545〜1598) 李氏朝鮮の武将。李が考案したといわれる亀甲船をはじめとする強力な水軍を率いて豊臣秀吉の侵略(文禄・慶長の役)を防いだ。韓国では国民的英雄。 | 『乱中日記〈1〉壬辰倭乱の記録 (東洋文庫) 』
荒山徹著 『高麗秘帖―朝鮮出兵異聞 李舜臣将軍を暗殺せよ 』
片野次雄著 『李舜臣と秀吉―文禄・慶長の海戦 』 |
ヤン・ヨーステン Jan Joosten van Loodentijin | (1556?〜1623) オランダの航海士。1598年、オランダ東インド会社の東洋貿易のためオランダのロッテルダムを出帆した5隻の船のうちの1隻リーフデ号の乗組員。1600年暴風雨に遭い、豊後(大分)臼杵湾に漂着。(敵の襲撃や嵐に遭うなど厳しい航海で5隻の船のうち日本に到達したのは1隻のみ。110人だった船の乗組員は、僅かに24人で彼らのほとんども栄養失調などで重体だったと言われる)。長崎奉行は彼らを捕らえ、大坂の豊臣秀頼に引見された。後、重傷で身動きがとれない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わりアダムスとともに徳川家康に信任され、招かれて顧問となり、ヨーロッパ情勢などを伝えた。家康から御朱印の許可をもらい、シャム,カンボジアなど東南アジア諸国と朱印船貿易を行った。また長崎・平戸にオランダ船を入港させ、オランダ商館を設けて本格的な日蘭貿易を行わせた。日本人妻を迎え、江戸日本橋の海に近い地域に屋敷を構えた。この地域は彼の名を取って耶楊子(やようす)河岸と呼ばれた。後の八重洲(現在の東京駅東口付近)である。1623年帰国をしようとしてバタビアまで渡るが果たせず、再び日本へ帰還中、船がインドシナで座礁して溺死した。 | KLMオランダ航空ウインドミル編集部編・著 『日蘭交流の歴史を歩く 』
浅田実著 『東インド会社―巨大商業資本の盛衰 (講談社現代新書) 』 |
ウィリアム・アダムス (三浦按針:みうらあんじん) William Adams | (1564〜1620) 日本に最初に来た英国人。スペインの無敵艦隊を破ったドレイクの元で活躍した腕を買われ、水先案内人としてオランダ船リーフデ号に乗り込みインドを目指した。アフリカ喜望峰経由(東方航路)の予定が、悪天候で西インド諸島〜マゼラン海峡を通り太平洋を横断する西方航路に変更。しかし中南米は敵のスペイン・ポルトガルの占領地がほとんどで、また未開の島で住民に襲われるなどしたため、航海は困難を極め、アダムスは行き先を日本に変更したが結局5隻あった船はリーフデ号のみになってしまった。水も食糧も底を尽き、乗組員は次々と倒れ瀕死の状態で1600年、日本に漂着(上陸の翌日に3人死去したといわれる)。書記メルヒヨールとともに徳川家康に招かれ大坂城で謁見。この時の会見は、よほど家康の興味が深かったのか関ヶ原の戦い直前にもかかわらず昼過ぎから夜半に及んだという。その後、船長ヤン・ヨーステンとともに正式に江戸に招かれて徳川家康の顧問となった。主に通訳や外交の相談を受けたり、洋式の帆船の建造などをしていたが、旗本として帯刀を許され、日本人妻を娶り、子供も生まれている。また相模国三浦の地を与えられて三浦按針と名乗り江戸日本橋に屋敷を構えた。1618年肥前・平戸に開設されたイギリス商館に勤め、イギリスとの貿易に活躍した。帰国を願い、日本に派遣されたジョン・セーリスの船に乗船する予定だったが、セーリスとは馬が合わず断念。死ぬまで帰国できず、また、家康の死後、秀忠・家光からは特別な扱いはされず、後鎖国体制が始まり不遇のうちに平戸で死去した。神奈川県横須賀市には記念碑があり、近くに「安針塚駅」と名づけられた駅がある。ジェームズ・クラベルのベストセラー小説でのちにテレビドラマにもなった『将軍』のモデルになった人物。 | 白石一郎著 『航海者―三浦按針の生涯(文春文庫) 』
ジャイルズ・ミルトン著 『さむらいウィリアム―三浦按針の生きた時代 』
大島昌宏著 『海の隼―参謀・三浦按針(ウイリアム・アダムス) 』
P.G. ロジャーズ著 『日本に来た最初のイギリス人―ウイリアム・アダムズ 三浦按針 』
立石優著 『家康とウィリアム・アダムス 』 |
ジョン・セーリス John Saris | (1579?〜1643) イギリス東インド会社の司令官。イギリス国王ジェームス1世の使節として1613年クローブ号で平戸に入港。この時、平戸藩主松浦鎮信を船に招き、火薬、鉄砲、ワイン、更紗などを贈っている。またアダムスの案内で駿府に赴き、徳川家康(当時は大御所)、さらに江戸で将軍秀忠に謁見し望遠鏡などを献上した。貿易許可を得て長崎に商館を建てたが翌年には離日した。この時の体験は『日本渡航記』にまとめられている。 | 『セーリス日本渡航記/ヴィルマン日本滞在記 』 |
ヘロニモ・デ・ヘスス (ヘズス) | (?) スペイン・フランシスコ会の宣教師。1597年、徳川家康の意向を受け、メキシコとの通商を仲立ちした。 家康からは江戸・京橋あたりに土地を与えられ教会を建てたとされる。また、伏見で徳川家康と謁見した際にタバコの種子を献上したとの記録があり、これが日本にタバコを紹介した最初とされている。 | (調査中) |
ジョアン・ロドリゲス Joao Rodriguez | (1561?〜1633) ポルトガル出身で、16歳の時来日し日本で宣教師になった。ポルトガル語よりも日本語が堪能だったといわれ、バリニャーノが豊臣秀吉に謁見した際に通訳をし、秀吉(後に家康も)のお抱え通訳となった。1603年にヨーロッパ語で最初に書かれた日本語文法書『日葡辞書』を著した。この辞書は当時の日本語の発音を知る貴重な資料にもなっている。仏教・禅・茶道についても造詣が深く、屋敷には茶室があったといわれている。1610年バテレン追放令に従ってマカオに移住し『日本教会史』を著した。
| 『日本小文典 』 『日本教会史(大航海時代叢書) 』
マイケル・クーパー著 『通辞ロドリゲス―南蛮の冒険者と大航海時代の日本・中国 』 |
ロドリゴ・デ・ビベロ (ドン・ロドリゴ) Rodrigo de Vivero y Velasco | (1564〜1636) ヌエバ・エスパーニャ(スペイン領メキシコなど)生まれのスペイン人政治家。フィリピンの総督を務めていた時に日本人の暴動が起こり、その鎮圧にあたる。その際、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れ、それをきっかけに日本とスペインとの交流が始まる。1609年、マニラからアカプルコに向かう途中でロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ号」が難破し千葉・御宿に漂着。地元民に救助されたロドリゴら一行は領主本多忠朝の歓待を受け、その後江戸で徳川家康に謁見、手厚い歓迎を受ける。後にアダムスが設計・建造した船「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」を与えられ、ヌエバ・エスパーニャに帰還した。その際、商人田中勝介も同行し、彼が日本人としてアメリカ大陸に渡った最初の人となった。翌年1611年、答礼使としてビスカイノが来日した。
| 『ドン・ロドリゴ日本見聞録 』 |
セバスティアン・ビスカイノ Sebastian Vizcaino | (1548〜1615) スペインの冒険家・政治家。アメリカ大陸のカリフォルニアやメキシコの測量・開拓などに当たっていたが、1611年ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣され、「サンフランシスコ2世号」で来日した。ドン・ロゴリゴの件での答礼が目的だったが日本沿岸の測量と「金銀島」発見の使命もあったため、徳川家康の許可を得て、奥州などを航海した。しかし金銀島は見つからず、嵐などで船が破損したため、浦賀に滞在することになった。その時帰国を援助したのは伊達政宗で、ビスカイノは1613年にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗し帰国した。著書に『金銀島探検報告』がある。因みに米カリフォルニアの「サンディエゴ」を命名した人物で、メキシコには「セバスチャン・ビスカイノ湾」がある。 | (調査中) |
| 朝鮮通信使 | () (調査中)
| (調査中) |
ルイス・ソテロ Luis Sotelo | (1574〜1624) スペイン出身のフランシスコ会宣教師。1603年フィリピン総督の書簡を携えて来日し徳川家康や秀忠に謁見、日本での布教に従事した。また、仙台藩の伊達政宗の知遇を得て奥州での布教活動も行う。1613年には禁教令によって捕らえられるが、政宗に救われ、その縁で支倉常長イスパニア、ローマに派遣するよう政宗に進言し、慶長遣欧使節団に同行してヨーロッパに渡った。その後鎖国・禁教が進む日本に再来日を望み、1622年に長崎に密入国するが捕らえられ、火刑となった。
| 太田尚樹著 『ヨーロッパに消えたサムライたち 』 |
隠元 (いんげん) | (1592〜1673) 明の高僧。弟子が日本に渡る途中遭難して死んだため代わりに来日。実に62歳の時だった。山城の宇治に寺地を賜り、ここに黄檗山万福寺を建立。黄檗宗の開祖となった。「隠元豆」「普茶料理」を招来した人物としても有名。 | 平久保章著 『隠元 (人物叢書) 』
禅文化研究所篇 『隠元禅師逸話選 』 |
李参平 (イ・サン・ピョン) | (?〜1655) 文禄・慶長の役で朝鮮に出兵した肥前佐賀城主・鍋島直茂によって日本に連れてこられた朝鮮の陶工。日本名は金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)。1616年、有田で白磁用の土を発見し丈夫な白磁を焼き、有田焼の祖とされる。佐賀県有田町には李を祭神とする陶山神社がある。なおこの時代には積み出し港の名を取って「伊万里焼」と呼ばれていた。 | 童門冬二著 『鍋島直茂―葉隠の名将 (人物文庫) 』 |
鄭成功 (ていせいこう) | (1624〜1662) 明の遺臣。別名国姓爺。台湾によって清に対抗し、日本に4度も援軍を要請したが鎖国を理由に拒絶され失意のうちに死んだ。母が日本人で長崎平戸に生まれ、日本・琉球・ルソンと交易をし大きな利益を得ていたといわれる。近松門左衛門作の人形浄瑠璃『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』は、彼をモデルに書かれた。
| 陳舜臣著 『鄭成功―旋風に告げよ(中公文庫) 』
伴野朗著 『南海の風雲児・鄭成功 』
石原道博著 『国姓爺 (人物叢書) 』 |
ルイス・フロイス Luis Frois | (1532〜1597) 京都近辺の関西を中心に布教を進めたポルトガルの宣教師。ジェスイット教団の伝道師として1563年に来日。信長、秀吉に謁見し、1569年には信長から許可をもらい、京都で布教を始め、1576年には京都に南蛮寺を建てた。しかし秀吉の時代になって禁教が決まると一時離日、晩年になって再び来日し主に九州で布教に当たったが長崎で没した。著書に『日本史』『日本文典』があり、戦国時代の情勢や大名たちの様子を知る貴重な資料となっている。 | 『完訳フロイス日本史〈1〉将軍義輝の最期および自由都市堺―織田信長篇(1) (中公文庫) 』 『ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫) 』 |
ペドゥロ・モレホン Pedro Moreion | (1562〜1639) スペイン出身のイエズス会の宣教師。1603年にオルガンティノ神父の後をうけて、京都の下京教会の院長となり、約9年間に渡って日本のイエズス会の長として布教活動を行った。1616年、徳川幕府によるキリスト教の禁止政策により日本を追放された。後メキシコで布教を続け、この地で日本の情勢や布教活動や迫害の記録『日本殉教録』を著した。 | 『続日本殉教録(キリシタン文化研究シリーズ) 』 |
トメ・ピレス Tome Pires | (1468?〜1524?) ポルトガルの薬剤師で薬種商人。1511年、インドの商館員となり、その後ポルトガルのアジア占領に従い、マラッカや中国に渡る。琉球王国や日本についても記述した『東方諸国記』を著す。『東方諸国記』は当時マルコ・ポーロの『東方見聞録』とともにヨーロッパ人がアジア情勢を知る貴重な記録だった。 | 『東方諸国記 (大航海時代叢書) 』 |
アビラ・ヒロン Bernaldino de Avila Giron | (?) スペインの貿易商人。1594年に来日し、1619年ごろまで長崎に滞在。『日本王国記』を著す。日本人の起源や風俗などのほか、キリスト教徒らの活動・迫害の記録、大地震などの天災、本能寺の変、秀吉の朝鮮出兵、関が原の戦い・大坂夏の陣などの政治・戦乱の歴史、京都の三条河原で行われた石川五右衛門の処刑についてなどが描かれている。 | 『日本王国記;日欧文化比較 (大航海時代叢書) 』 |
アーノルダス・モンタヌス Anoldus Montanus van Bergen | (1625〜1683) オランダの牧師で、東インド会社の資料や日本に駐留した宣教師や商人の報告や日記・オランダ商館長の江戸参府日誌などの膨大な資料をもとに『日本誌』を著した。当時のヨーロッパにとって江戸時代の日本の情勢を知る貴重な資料だった。 | 『モンタヌス日本誌 英語版(全3冊セット) 』 |
ヨハン・シドッチ (シドッティ) Giovanni Battista Sidotti | (1668〜1715) イタリア・シチリア島出身の宣教師。1903年に中国に渡り、1908年鎖国時代に屋久島に上陸。日本潜入を試みて捕らえられ、江戸の小石川宗門場所(キリシタン屋敷)に幽閉され牢死した。新井白石は獄中のシドッチと数回に渡り会見し西洋情勢などを尋問。その話をもとに『采覧異言』『西洋紀聞』を著した。
| 『西洋紀聞 (東洋文庫) 』 |
エカテリーナ2世 Alekseevna Ekaterina U | (1729〜1796) ロシアの女帝。ドイツ貴族の出身で、夫ピョートル3世を暗殺して即位。ポーランドの分割、トルコ戦争、アリューシャン列島の進出などを推進した女傑。遭難しロシア人に救助された伊勢の商人大黒屋光太夫と謁見し、支援した。1792年ラックスマンを函館に派遣。光太夫を帰国させ、同時に国交を迫った。
| 井上靖著 『おろしや国酔夢譚 』
アンリ・トロワイヤ著 『女帝エカテリーナ(中公文庫) 』
南川三治郎著 『恋と美の狩人 エカテリーナ 』
小野理子著 『不思議な恋文―女帝エカテリーナとポチョムキンの往復書簡 (ユーラシア・ブックレット) 』 |
ラックスマン (ラクスマン) Adam Kirilovich Laksmam | (1766〜1796?) ロシアの陸軍将校。1792年女帝エカテリーナ2世の命を受け、漂流民大黒屋光太夫らを引渡しに根室に来航。翌年函館に入り幕府に日露の国交開始を迫ったが、鎖国政策中の幕府から拒絶された。ロシア最初の遣日使節である。父エリクは植物学者で、父がシベリアでたまたま光太夫らと出会ったことが来日のきっかけになった。
| 木崎 良平著 『光太夫とラクスマン―幕末日露交渉史の一側面 (刀水歴史全書) 』
井上靖著 『おろしや国酔夢譚 (文春文庫) 』 |
イワン・クルーゼンシュテルン Adam Johann von Krusenstern | (1770〜1846) 帝政ロシアの海軍軍人・探検家。1803年からおよそ3年をかけ、ロシア船を使い、世界で始めて世界一周を成し遂げた。清や日本との国交樹立、南米との貿易拡大、北米の植民地化のための視察が目的だった。遣日使節レザノフと仙台藩出身の津太夫ら4人の日本人漂流民も同行し、途中長崎に立ち寄り幕府と交渉を行うが失敗に終わっている。世界一周の記録は『世界周航記』としてまとめられ、北海道沿岸の地理なども詳しく記載されている。「日本海」を地図に載せ最初に命名した人物として知られている。 | |
レザノフ Nikolai Petorovich Rezanov | (1764〜1807) ロシアの企業家。1804年、クルーゼンシュテルン艦隊長による船に乗りロシアの使節として長崎に来航し、通商を求めたが鎖国政策を盾に幕府から拒絶された。後に武力によって蝦夷地や択捉や樺太に現れて略奪を繰り返したため、日本の守備兵と紛争を起こした。 | 『日本滞在日記 (岩波文庫) 』
木崎良平著 『仙台漂民とレザノフ―幕末日露交渉史の一側面〈NO.2〉 (刀水歴史全書) 』 |
ゴローウニン V.M.Golovnin | (1776〜1831) ロシア軍艦ディアナ艦長。1811年国後島に上陸、日本の守備兵に捕らえられ函館・松前の牢に入れられた。ロシア側は報復措置として蝦夷地開発事業に当たっていた高田屋嘉兵衛を拉致した。事情を知った嘉兵衛は日露間の紛争調停に尽力し、1813年、帰国すると幕府を説得してゴローウニンを釈放させた。(ゴローウニン事件)。ゴローウニンはこの約2年間に渡る監禁生活の経験を元に日本の当時の情勢を描いた『日本幽囚記』を著した。 | 『日本幽囚記(岩波文庫) 』 |
カール・ツンベルク (ツュンベリー) Carl Peter Thunberg | (1743〜1822) スウェーデンの植物学者。安永年間に来日し医学・植物学を日本人に伝え帰国後『日本植物誌』を著した。
| 『江戸参府随行記 (東洋文庫) 』 |
エンゲルベルト・ケンペル Engelbert Kaempfer | (1651〜1716) ドイツの医師・博物学者。ロシア、ペルシアなど中東、インドなどを医療団のひとりとして旅をし、1689年、オランダ人を装って長崎出島に来日、オランダ商館付の医師となる。およそ2年に渡る日本滞在中は長崎でドイツ医学を用いた治療を行い日本の医者たちにも伝えたが、鎖国中のため一般には広まらなかった。またその間、2度も江戸参勤に従って将軍(綱吉)に謁見した。その後も日本の研究に没頭し貴重な資料を集めた。12年ぶりにヨーロッパに帰った後ライデン大で医学博士号を取得。故郷ドイツで医者を続けながら1712年から『日本誌』を著し、これは死後の1727年にロンドンで出版され、名著として各国語に翻訳されゲーテ、カント、モンテスキューやフンボルトらが愛読したという。
| 『新版 改訂・増補日本誌〈1〉―日本の歴史と紀行 』 『江戸参府旅行日記 (東洋文庫 303) 』
ベアトリス・M.ボダルト・ベイリー著 『ケンペルと徳川綱吉―ドイツ人医師と将軍との交流 (中公新書) 』
『ケンペル―礼節の国に来たりて (ミネルヴァ日本評伝選) 』
ヨーゼフ・クライナー著 『ケンペルのみた日本 (NHKブックス) 』 |
 トーマス・ブレーク・グラバー Thomas Blake Glover | (1838〜1911) イギリス・スコットランド出身の商人。1859年に来日、おもに長崎に滞在し、当初は生糸や茶の輸出を中心として貿易を行っていたが、後に薩長を支援し軍艦や武器購入に尽力、また伊藤博文・五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの留学の手引きをするなど明治維新の推進に貢献し富を得た。維新後は高島炭鉱や長崎造船所の経営などで日本の近代化に務め、三菱財閥の基礎作りにも尽くした。長崎に残る「グラバー邸」は現存する日本最古の木造西洋建築物で国の重要文化財。 | 杉山伸也著 『明治維新とイギリス商人―トマス・グラバーの生涯 (岩波新書) 』
アレキサンダー・マッケイ著 『トーマス・グラバー伝 』
内藤初穂著 『明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末 』 |
シーボルト (ジーボルト) Philipp Franz von Siebold | (1796〜1866) ドイツの医師・博物学者。1823年、27歳の時オランダ人と偽って来日、長崎出島の商館で医師として務めた。シーボルトの医術は評判を呼び、出島を出ることを許され、長崎の郊外に鳴滝塾を開いて治療と医学・自然科学の講義・教育に当たり高野長英、伊東玄朴、小関三英らを育てた。オランダ総督から命じられて日本の研究を進め、1万点に及ぶ動植物の標本や弟子たちからのレポートを集めた。日本人お滝と結婚し「いね」という娘をもうけた。1928年、帰国が決まり集めた資料を船に積んだところ、幕府天文方高橋景保からもらった伊能忠敬の日本地図が見つかり、スパイの容疑でシーボルトは追放、高橋は処刑、門下生や知人ら約50人の関係者が処罰された(シーボルト事件)。帰国したシーボルトは莫大な資料をもとに日本の研究本『日本植物誌 』『日本動物誌』『日本 』を著した。特に『日本』はバイブル的な役割を果たし、ヨーロッパで日本ブームを巻き起こした。ペリーも来日の際参考にしたといわれる。帰国してから約30年後に再来日し、お滝や弟子・友人たちとの再会を果たした。娘いねは日本初の女医となった。 長崎には彼の功績を記念して「鳴滝塾跡」や「シーボルト記念館」「シーボルト通り」がある。また、シーボルトミミズ(Pheretima sieboldi)やオニヤンマ(Anotogaster sieboldii)など学名に"sieboldi"または"sieboldii"など、彼に対し献名された動植物も多い。 | 『江戸参府紀行 (東洋文庫) 』
吉村昭著 『ふぉん・しいほるとの娘(新潮文庫) 』
ヨーゼフ・クライナー著 『黄昏のトクガワ・ジャパン―シーボルト父子の見た日本 (NHKブックス) 』
ヴェルナー・シーボルト著『シーボルト、波瀾の生涯 』
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ウォルシュ兄弟 トマス・ウォルシュ、ジョン・ウォルシュ Walsh | (〜) アメリカ・ニューヨークの出身。1862年、神戸、横浜にウォルシュ・ホール商会を設立。主に生糸と緑茶、絹物を扱う貿易商として活躍した。(調査中) | (調査中) |
ウィリアム・ホイットフィールド William Whitfield | (?) 捕鯨船ジョン・ホーランド号の船長。鳥島を通りかかった時、島に遭難していた土佐(高知)の漁師ジョン万次郎(中浜万次郎)らを救助した。14歳だった万次郎をアメリカ本国に連れ帰り、家に住ませて塾や学校に通わせた。
| 成田和雄著 『ジョン万次郎―アメリカを発見した日本人 (河出文庫) 』
春名徹著 『中浜万次郎―世界をみてきたジョン=マン (講談社 火の鳥伝記文庫) 』 |
ヴィレム2世 (ウィレム二世) William II (William Frederick George Louis) | (1792〜1849) オランダ国王。特使コープスを派遣して将軍徳川家慶に開国を勧める親書を送った。オランダサッカーリーグのクラブ「ヴィレムII」は、彼の名前が由来となっている
| (調査中) |
ビッドル James Biddle | (1783〜1848) アメリカの東インド艦隊司令長官。1846年(ペリーの7年前)、旗艦コロンバス号とヴィンセンズ号の2隻の軍艦を率いて浦賀に来日しアメリカ大統領ポークの親書を持って国交を求めた。しかし浦賀奉行所から幕府の意向である「鎖国」を理由に拒否された。幕府船に乗り込む際間違った船に乗り、役人の一人が抜刀したため、ビッドルは激怒したが、その後誤解によるものと諭され、交渉は穏便に進むものの、結局は目的を果たせず退去した。この後幕府は沿岸の警固に務めた。
| 五百旗頭真著 『日米関係史 (有斐閣ブックス 103) 』 |
ペリー (ペルリ) Matthew Calbraith Perry | (1794〜1858) アメリカの東インド艦隊司令長官。15歳でアメリカ海軍に入り様々な殊勲を上げ、海軍の近代化に努め、アメリカ初の蒸気による軍艦フルトン2世号の艦長になった。1853年、フィルモア大統領の国書を持って4隻の蒸気船(黒船)を従えて浦賀に来航、江戸幕府に開国を迫った。翌1854年には再来日し下田・函館などの開港、アメリカ船(主に捕鯨船だった)への燃料・水の補給などを盛り込んだ日米和親条約を結んだ。アメリカの進んだ文化を示すため通信機、ピストル、蒸気機関の模型、写真機などを幕府に提供し日本に紹介した。『日本遠征記』の著書がある。ペリー(黒船)来航はおよそ250年に渡る日本の「鎖国」を解き、海外諸国との貿易開始の端緒を開き、尊皇攘夷運動・明治維新・日本の近代化を一気に促した「大事件」であった。 このページの上の肖像画は当時の絵描きが描いたペリーの想像画である。…ひどすぎる。 | 『ペリー提督日本遠征日記 (地球人ライブラリー) 』
ピーター・ブース・ワイリー著 『黒船が見た幕末日本―徳川慶喜とペリーの時代 』
大江志乃夫著 『ペリー艦隊大航海記 (朝日文庫) 』
サミュエル・エリオット・モリソン著 『伝記 ペリー提督の日本開国 』 |
プチャーチン Evfimii Vasilievich Putyatin | (1803〜1883) ロシアの使節。海軍大将で1827年ナワリン海戦でトルコ艦隊を破るなどの戦功を挙げた。1853年ペリーの直後に長崎に来航し国交を迫る。幕府側と会議中にクリミア戦争が勃発し一時退去したが、後1954年に下田に来航し翌年日露和親条約を結んだ。
| 上野芳江著 『プチャーチン提督―150年の航跡 (ユーラシア・ブックレット) 』 |
イワン・ゴンチャロフ Ivan Alexandrovich Goncharov | (1812〜1891) 小説『オブローモフ』で知られるロシアの作家。1852年から1855年まで、イギリス、アフリカ諸国、日本に旅した。日本には1853年に長崎に来航、プチャーチン提督の秘書官としてシベリアを経由して帰国。1858年にその紀行文『日本渡航記(フリゲート艦パルラダ号)』を刊行した。 | 『ゴンチャローフ日本渡航記 (講談社学術文庫) 』 |
ハリス Townsent Harris | (1804〜1878) アメリカの初代駐日総領事。若い頃から商人として中国・インドなどを旅し東洋に対しての深い知識と経験を持っていた。1856年静岡県下田・玉泉寺に駐留、1年後に江戸に赴き将軍に謁見、強い態度で日米修好通商条約を締結を迫った。1858年、大老井伊直弼は朝廷の許可を得ずにこの不平等条約を結び、後々まで大きな問題を残した。下田に滞在中、「家政婦」を求めたが日本人はこれを理解できず、「妾」となる女性を世話した。それが唐人お吉である。
| 『黒船』
手塚治虫著 『陽だまりの樹 (1) (小学館文庫) 』
河村望著 『タウンゼント・ハリスと堀田正睦―日米友好関係史の一局面 』
竹岡範男著 『唐人お吉物語 』 |
オルコック (オールコック) Sir Rutherfard Alcok | (1809〜1897) イギリスの外交官。始めは軍医としてオランダに渡る。中国のアロー号事件の際に外交官として活躍しその功が認められて1858年初代駐日総領事に任命され来日。しかしハリスと対立し日本に対し強硬策をとったため恨みを買い、水戸浪士に公使館を襲撃された。
| 『大君の都 ―幕末日本滞在記 (1) 』 |
ヒュースケン Henry Conrad Joannes Heusken | (1832〜1860) オランダ人で後アメリカに帰化した通訳官。1856年、ハリスに雇われて来日し、下田玉泉寺で秘書兼通訳を務めた。1860年に江戸で攘夷派の武士に暗殺される。ヒュースケンの日記が残されており、幕末外交史を探る貴重な資料となっている。
| 『ヒュースケン日本日記 1855~1861 (岩波文庫) 』 |
リチャードソン Charles Lenox Richardson | (1834〜1862) イギリス人商人。1862年、上海で商人をしていたが日本に観光に訪れ、友人の横浜居留地委員長のウィリアム・マーシャル、マーシャルのいとこのマーガレット、ハード商会横浜駐在員ウッジローブ・チャールズ・クラークらとともに川崎大師に向かう途中の生麦村で、薩摩藩主島津久光の大名行列に遭遇。騎乗のまま行列を横切ったことを無礼とされ、警固の武士に斬り殺された(生麦事件)。イギリスはこれに猛抗議し、代理公使ジョン・ニールを通じて薩摩藩と江戸幕府に賠償金10万ポンド、犯人の引渡しと陳謝を要求するが、薩摩藩は拒否したため、イギリスは艦隊を派遣し鹿児島を砲撃した(薩英戦争)。しかし薩英戦争の結果、ボロ負けした薩摩藩は攘夷が実行不可能であることを察知しイギリスと和解、以後薩英は急接近し協力し倒幕の原動力になった。
| 吉村昭著 『生麦事件 』
宮沢真一著 『「幕末」に殺された男―生麦事件のリチャードソン (新潮選書) 』 |
ハリー・パークス Sir Harry Smith Parkes | (1828〜1885) 英国の駐日公使。中国・上海の領事として活躍していたが、1856年、オルコックの要請で後任の日本の公使に就任。以後約18年に渡って日本に滞在。サトウを右腕として使い、薩長と協力して倒幕に暗躍した。明治維新後は西洋文明の導入やお雇い外国人の来日斡旋などに尽くし、日本の近代化を支援した。
| (調査中) |
ロッシュ Leon Roches | (1808〜1901?) フランスの外交官。1864年駐日公使として来日。幕府側について日本最初の外交代表のパリ駐在や軍事教官の招聘などに尽力した。横浜仏語学校、日仏合同商社を設立。明治維新後に帰国した。
| 鳴岩宗三著 『レオン・ロッシュの選択 幕末日本とフランス外交―駐日フランス公使レオン・ロッシュは、なぜ、落日の幕府に肩入れしたのか? 』 |
アーネスト・サトウ Ernest Satow | (1843〜1929) イギリスの外交官。わずか18歳で英国外務省に入省し、志願して来日しイギリス公使館員となりパークスの補佐をした。しかし来日して約一週間ほどで生麦事件が起こり、その後薩英戦争が勃発するなど日英関係はちょうど多難な時期を迎えた。サトウは通訳としてこの重責を担い、パークスとともに活躍し幕府側・維新側双方から厚い信頼を得た。特に伊藤博文・勝海舟・桂小五郎らと篤い親交を結んでいた。その後何度か日本を離れ他国に勤務するが、再度日本に帰任。結局外交官として在日は約20年に及んだ。この間にサトウは天皇の下、幕府と維新側が協力した共和国を作ることを想定し、諸大名にその提案書を配り広めた。この考えが後の明治政府(立憲君主制)の母体になったといわれる。引退後はイギリスの小さな村で英文学の研究に励み、オックスフォード、ケンブリッジ両大から学位を授与された。また日本文化の紹介も積極的に行った。因みにサトウは「佐藤」ではなく、まったくの偶然で、本人も「私の名前は日本人のありふれた苗字と一緒だったので、容易に覚えてもらえ、知らない人にも伝わっていた」と言及している(回想録『一外交官の見た明治維新』より)。
| 一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)
萩原延壽著 『旅立ち 遠い崖1 アーネスト・サトウ日記抄(朝日文庫) 』
古川薫著 『アーネスト・サトウ―女王陛下の外交官 』
B・M・アレン著 『アーネスト・サトウ伝 (東洋文庫) 』
茶屋二郎著 『一八六八年 終りの始まり―アーネスト・サトウの夢と現実 』 |
エジンバラ公 Alfred Ernest Albert | (1844〜1900) アルフレッド・アーネスト・アルバート(アルフレート)、英ビクトリア女王とアルバート公の次男。駐日英国大使ハリー・パークスの尽力で1869年(明治2年)、初めて来日した欧州の王族である。9月に横浜に到着、明治天皇に招かれ、皇居で謁見した。その際、「幣(ぬさ)」と呼ばれる禊(一種の悪霊払い?)の儀式が行われた。明治天皇から漆器や脇差などの贈り物の他、ビクトリア女王へ「世を治め人をめぐまば天地(あまつち)の ともに久しくあるべかりけり」という和歌を賜った。様々な歓迎儀式が行われ、相撲の観戦や能狂言の観劇なども行われている。エジンバラ公は父の跡を継ぎ1893年にザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートとなり、ドイツで暮らした。
| 『英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録 (講談社学術文庫) 』
ドナルド・キーン著 『明治天皇〈上巻〉
』 |
ジョージ5世 George V | (1865〜1936) 英ビクトリア女王の孫。エドワード7世の次男。現エリザベス女王の祖父。大津事件のニコライ2世は従弟に当たる。1歳上の兄アルバート・ヴィクター (後のクラレンス公)とともに王子時代に海軍に入隊、戦艦で南アフリカや豪などのイギリスの植民地をはじめとする3年にも及ぶ世界周遊旅行の一環として1881年に来日。兄ヴィクターは18歳、ジョージ5世は17歳であった。来日中には兄弟揃って腕に龍の彫り物をし、京都で能などを鑑賞した。 兄アルバート・ヴィクターは肺炎のため28歳の若さで急死したため王位を継承し、後、大英帝国国王・初代ウィンザー朝の王となった。なおジョージ5世は、1921年に訪英した昭和天皇(当時皇太子)を歓迎して親身に世話をし、昭和天皇の人格に大きな影響を与えたといわれている。因みにアルバート・ヴィクターは「切り裂きジャック」だったのでは?という噂があった。
| フロム・ヘル [DVD] |
ユリシーズ・グラント Ulysses Simpson Grant | (1822〜1885) 第18代アメリカ大統領。大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。南北戦争では北軍の将軍として活躍し、北軍に勝利をもたらした貢献者で絶大な人気を誇った。1872年、来米した岩倉使節団と会談し、日本のキリスト教禁止政策を非難した。また、1871年、黒田清隆の要請で現職の農務長官だったケプロンを北海道の開拓のため派遣した。大統領辞任後の世界一周旅行の際に夫人とともに日本を訪問。1879年6月軍艦リッチモンドで長崎に上陸し、約2ヶ月に渡って滞在した。京都に行く予定もあったが当時関西でコレラが発生したため、中止して7月3日、横浜に渡った。東京では岩倉具視が出迎え、再会を果たした。7月4日の独立記念日に東京・浜離宮で明治天皇と会見した他、芝・増上寺で松(グラント松)を、上野公園で檜を植樹した。また続いて天皇に招かれて陸軍の閲兵式に望み、7月半ばには日光で伊藤博文と日清間で揉めていた「琉球問題」について会談。再び東京で天皇とその問題について会談し「日本は清国に対して寛大かつ公正な精神で譲歩すべきである」などと言ったといわれている。8月25日には上野公園で開催された東京遷都12周年記念祭典に招かれ、天皇とともに槍術や流鏑馬、花火を観賞、その後グラントは宿舎までの帰路を数十万人の東京府民の歓迎の旗や提灯に迎えられながら進んだ。この他能や歌舞伎を鑑賞、静岡県・三島など各地で歓迎式典があり、様々な名産を贈呈されている。これらの一部はワシントンのスミソニアン博物館で展示されている。グラントは後にこれらの体験を詳細に日記に残しそれらは『グラント将軍日本訪問記』として残されている。それには日本を「言葉に尽くせぬほど美しい」と評し、天皇や岩倉、三条実美首相などの印象も細やかに語っている。仮名垣魯文の『格蘭氏伝倭文賞(ぐらんどしやまとぶんしょう)』はグラントをモデルにした伝記小説。また、東京練馬にあったアメリカ軍人の住居施設「グラントハイツ(現在光が丘団地)」は彼の名に因んだもの。
| ドナルド・キーン著 『明治天皇〈1〉 (新潮文庫) 』
ジョン・ラッセル・ヤング著 『グラント将軍日本訪問記 』 |
カラカウア王 Kalakaua | (1836〜1891) ハワイ王国の第7代国王。1874年、選挙によって国王に選出され、死去するまでのおよそ17年間国王を務めた。アメリカ合衆国からの移民の問題と、世界各国との外交関係を築くため、世界各地を歴訪。その際、日本にはお忍びで立ち寄ることになった。しかし彼の目的は「日本人のハワイ移住の奨励」であり、そのため条約の締結を望んでいたため、日本側から国賓として扱われた。1881年3月4日横浜に到着、ハワイ国旗を振る市民の大歓迎に国王は大感激。翌日、赤坂御所で明治天皇と対面。最初3日間の滞在予定であったが、井上馨外務大臣の発案で数々の歓迎儀式が行われることになり、延長された。3月11日には再び明治天皇と会談。王はヨーロッパ諸国に対してアジア諸国が連盟し「治外法権」などの偏った関係を改善するべきことを力強く説き、天皇にニューヨーク博覧会の際に渡米して世界にこれを説得して欲しいなどと話をしている。また、姪のカイウラニ王女(当時5歳)と山階宮定磨王(当時14歳・のちの東伏見宮依仁親王)の政略結婚を要請した。実現しなかったが。彼が初めて来日した外国元首である。
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ニコライ2世(アレクサンドロビッチ) Nikolai U,Aleksandrovich Romanov | (1868〜1918) ロシアのロマノフ朝最後の皇帝。ピエール・ロティの小説『お菊さん』の愛読者で日本に興味を持っていた。1891年皇太子時代に来日したが滋賀県大津市で警固の警官津田三蔵に襲われて負傷した(大津事件)。日清戦争後の1895年、いわゆる三国干渉をし日本に遼東半島を返還させた。またこのことがきっかけに日露関係が悪化し日露戦争を引き起こした。 ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇
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ジョン・ウイリアム・ドレーク John William Drake | (生没年調査中) イギリスの商船ノルマントン号の船長。1886年、横浜から神戸に向かう途中、紀伊半島沖で遭難した。その際イギリス人の他インド人、中国人、日本人ら約60人が乗っていたが、日本人乗客25人全員、インド人などアジア人ばかりが死に、イギリス人ばかりが救命ボートに乗り助かった(ノルマントン号事件)。これは人種差別であるとして神戸英国領事館で裁判にかけられた。しかし、無罪となったため、世論は怒り収まらず、井上馨外相から殺人罪で告訴された。結果、横浜英国領事館判事ハンネンより禁錮3ケ月の判決を受けた。
| 神戸外国人居留地研究会編・著『神戸と居留地』 |
エリザベス・アンナ・ゴルドン Elizabeth Anna Gordon | (1851〜1925) 英国イングランドの名門に生まれ、スコットランドの貴族に嫁いだ名門出身の女性で多年ビクトリア女王に女官として仕えた。オックスフォード大で比較宗教学を学び、アジア宗教に興味を持つ。キリスト教と仏教の根本同一(「仏基一元」)を確信、1891年夫ともに世界旅行中に日本に立ち寄り調査に当たった。その際日本文化に深い感銘を受け、また日本には洋書が少ないことを聞き、帰国してから英米カナダの新聞で「英国の文化を日本に伝え、親善をはかる為に洋書を日本に贈ろう」と呼びかけ、10万冊を集め、1907年再来日し東京市に寄贈した(東京・日比谷図書館収納「日英文庫」)。それを機に日本に在留し、日本文化と仏教の本格的な研究を開始する。大隈重信と知己となり、東京専門学校(現・早稲田大)で名誉講師として講演を行うなど縁の深かったことから、帰国の際、蔵書や仏画・軸・物品等を早大に寄贈(「ゴルドン文庫」)した。その後1912年にも来日したが滞在中の京都で病死した。高野山には夫人の寄贈による景教碑(西安のレプリカ)がある。
| (調査中) |
閔妃 (びんき、またはびんひ、みんび) | (1851〜1895) 朝鮮の王妃。1873年、兄らとともに父大院君を引退させ、清国と結んで権力を奮った。また、日本から軍事顧問などを招き朝鮮国内の改革を進めた。その後日清戦争で清が破れるとロシアと結びついて1895年、親露政権を樹立した。しかし危険を察知した日本公使三浦梧楼がクーデターを扇動し、親日派政権を立てるため閔妃は暗殺された。これ以後朝鮮半島は日本の影響力が一層強まる。 | 角田房子著 『閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫) 』
木村幹著 『高宗・閔妃―然らば致し方なし (ミネルヴァ日本評伝選) 』
崔文衡著 『閔妃は誰に殺されたのか―見えざる日露戦争の序曲 』
金文子著 『朝鮮王妃殺害と日本人―誰が仕組んで、誰が実行したのか 』
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| 大院君(だいいんくん) | (1820〜1898) 李氏朝鮮の王族で、元来「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、ここでは興宣大院君(こうせんたいいんくん)のこと。閔妃の父王で排外鎖国政策をとったため閔妃と対立、引退させられたが、1882年、勢力を持ち直し日本公使館を焼き討ちした(壬午事変)。
| 呉善花著 『韓国併合への道 (文春新書) 』 |
金玉均 (きんぎょくきん) | (1851〜1894) 朝鮮独立党党首で日本に接近し朝鮮国内の改革を推進し、閔妃率いる事大党打倒のクーデターを起こすが失敗し、日本に亡命した(甲申事変)。
| 姜健栄著 『開化派リーダーたちの日本亡命―金玉均・朴泳孝・徐載弼の足跡を辿る 』 |
李鴻章 (りこうしょう) | (1823〜1901) 清国全権。1885年、伊藤博文と甲申事変の後処理として天津条約を結ぶ。1895年には日清戦争後の朝鮮半島他の占領をめぐる講和条約(下関条約)を結んだ。 | 若尾正昭著 『清朝・大官の幻影―李鴻章と丁日昌 』 |
ジョン・ヘイ John Miton Hay | (1838〜1905) アメリカの政治家。ジャーナリスト、実業家としても才能を発揮し、駐英大使、マッキンリー、シオドア・ルーズベルト大統領の国務長官を務めた。1899年、日清戦争後の清に対して列強各国が租借したのを受けて門戸開放・機会均等・領土保全を宣言、アメリカも清への進出を決めた。
| 檜山幸夫著 『日清戦争―秘蔵写真が明かす真実 』 |
セオドア・ルーズベルト Cheodore Roosevelt | (1858〜1919) 第26代アメリカ大統領。日露戦争の和平を斡旋し、ポーツマス講和会議を開いた。この功績によりノーベル平和賞を受ける。新渡戸稲造の『武士道』や『忠臣蔵』を愛読し、アメリカ人初の柔道茶帯取得者であり、親日派として知られたが、ハーバード大学時代の友人金子堅太郎の影響といわれる。「テディベア」のテディとは彼の愛称。ラシュモア山に刻まれた四人の歴代大統領のひとり。映画『チーム★アメリカ/ワールドポリス』ではその彫刻の頭が割れて戦闘機が飛び出るシーンがあったっけ。現在マーチン・スコセッシ監督がディカプリオ主演で伝記映画を製作中。
| 長田彰文著『セオドア・ルーズベルトと韓国』 |
ウイッテ (ヴィッテ) Vitte | (1849〜1919) ロシア全権大使。皇帝ニコライ1世によって大蔵大臣として採用され、その後ニコライ2世にも重用されロシア帝国大臣会議議長、首相を歴任。ポーツマスで日露講和条約の調印を行った。
| ピーター・E. ランドル著 『ポーツマス会議の人々―小さな町から見た講和会議 』 |
安重根 (アン・ジュングン) | (1879〜1910) 朝鮮の民族主義者。日本の韓国併合に抵抗し、朝鮮独立運動に従事した。私財を投じて二つの学校を建て思想教育に専念するが植民地化していく祖国の現状を憂い、家族と別れてウラジオストクに亡命。閔妃暗殺事件をきっかけに盛り上がった義兵運動(反日運動)に加わり、1ヶ月半に渡って300人の義兵を率いて日本と戦うが破れて再びロシアに逃亡した。1909年、ウラジオストクに潜伏していた安重根は、韓国を日本に併合する政策を進めた伊藤博文(韓国統監府初代統監)がハルビンに来ることを知り、ハルビン駅で伊藤博文(韓国統監府初代統監)を暗殺した。この事件で投獄され翌1910年3月26日に処刑されたが「抗日闘争の英雄」として現在の韓国では評価されている。 | 韓碩青、金容権著 『安重根〈第2部〉超人篇 』
佐木隆三著 『伊藤博文と安重根 (文春文庫) 』
中野泰雄著 『安重根と伊藤博文 』
斎藤充功著 『伊藤博文を撃った男―革命義士安重根の原像 (中公文庫) 』 |
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フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright | (1869〜1959) アメリカの建築家。近代建築の三大巨匠のひとり。独特な平面と大胆なアジアンテイストを盛り込んだ設計で新境地を開き、特にヨーロッパで高く評価された。来日して旧帝国ホテル(現在明治村に移築)、自由学園明日館(東京・豊島区)などを設計。日本の近代建築に大きな影響を残した。浮世絵の収集家としても知られる。 | 大久保美春著 『フランク・ロイド・ライト―建築は自然への捧げ物 (ミネルヴァ日本評伝選) 』
谷川正己著 『フランク・ロイド・ライトの日本 浮世絵に魅せられた「もう一つの顔」 (光文社新書) 』 『図面で見るF.L.ライト―日本での全業績 』
山口由美著 『帝国ホテル・ライト館の謎―天才建築家と日本人たち (集英社新書) 』 |
快楽亭ブラック
| (1858〜1923) オーストラリア出身の落語家・講釈師・奇術師。本名はヘンリー・ジェイムズ・ブラック。日本名は石井貎刺屈。1865年新聞記者だった父ジョン・レディ・ブラックとともに来日。父は政府を揶揄したかどで圧力がかかり上海に逃れたが、本人は日本に残り奇術師の弟子になる。1884年には三遊亭一門に弟子入りをして本格的な落語家への道を歩んだ。1891年3月より「快楽亭ブラック」と名乗り、青い目の落語家として大人気を得た。その後日本人と結婚して日本に帰化。なお、日本で初めて録音されたレコードは彼の落語であった。現在映画評論家としても知られる2代目快楽亭ブラックとは血縁関係は無い。
| 『明治探偵冒険小説集 (2) 快楽亭ブラック集 ちくま文庫 』
小島貞二著 『決定版 快楽亭ブラック伝 』
イアン・マッカーサー著 『快楽亭ブラック―忘れられたニッポン最高の外人タレント 』 |
ロバート・ランシング Robert Lansing | (1864〜1928) アメリカ・ニューヨーク州出身の弁護士で、ウィルソン大統領の下で第42代アメリカ合衆国国務長官を務めた。1917年にワシントンD.C.において日本代表の石井菊次郎と会談を行い、中国での特殊権益に関する石井・ランシング協定を締結した。 | 池田十吾著 『石井・ランシング協定をめぐる日米交渉 』 |
サンソム George Bailey Sansom | (1883〜1965) イギリスの外交官。1904年、若干20歳で領事となり来日。1907年日英海軍条約の締結に従事する。満州事変から日米開戦直前まで在日。また日本文化・言語の研究家としても活躍。コロンビア大学の日本学者となり、太平洋戦争後は駐米大使を経て連合国極東委員会イギリス代表となり再来日、マッカーサーのブレインを務めたが、教育改革に反対して罷免された。『日本史』『日本文化小史』などの著作がある。
| 『日本―その文化のあゆみ 』
『西欧世界と日本(ちくま学芸文庫) 』
妻キャサリンの著作 『東京に暮す―1928~1936 (岩波文庫) 』 |
アーサー・ウェイリー Arthur David Waley | (1889〜1966) 英・ケント州の名家に生まれる。名門ラグビー校からケンブリッジ大キングスカレッジに進み、古典学を学ぶ。ヴァネッサ・ベルやヴァージニア・ウルフの兄弟ら学者や作家・芸術家からなるブルームズベリー・グループの1人でもあった。その後大英博物館の東洋学部に勤務し独学で日本語と中国語を習得。大英博物館は1929年に辞すがロンドン大学東洋アフリカ研究学院で講義を続けつつ著作に務め、白楽天の詩や論語、日本の和歌集や能など古典を英訳した。特に1921年〜1933年に6巻に分けて出版された『The Tale of Genji(源氏物語)』は後の東洋学・日本語研究者達に大きな影響を与えた。この著作によって『源氏物語』が世界最高の文学のひとつとして世に知られるようになった。今でも外国において日本を研究する上でのバイブルのような存在となっている。1952年に大英帝国勲章(CBE)を受賞、1956年には名誉勲位 (The Order of the Companions Honour: CH)となった。日本や中国に実際に来る事もなく、また日本人などの協力者もおらず、辞書なども無い時代に全くの独学で日本語をマスターし、華麗な翻訳文を成した驚異の人である。ただし現代語(口語)はできなかったと言われる。 | 『ウェイリー版 源氏物語〈1〉 (平凡社ライブラリー) 』
宮本昭三郎著 『源氏物語に魅せられた男―アーサー・ウェイリー伝 (新潮選書) 』
平川祐弘著 『アーサー・ウェイリー?『源氏物語』の翻訳者 』 アリスン・ウェーリー著
『ブルームズベリーの恋―アーサー・ウェーリーとの愛の日々 』 岡野弘彦著
『国境を越えた源氏物語 (エンゼル叢書) 』 |
魯迅 (ろじん) | (1861〜1936) 中国を代表する作家・思想家。1904年、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に留学、この頃の体験を元に『吶喊自序』『藤野先生』を著す。仙台には約1年半いたが学校を中退、帰国。中華民国政府や北京大学で講師などをしながら『狂人日記』『阿Q正伝』などの傑作を残した。 | 『阿Q正伝・藤野先生 (講談社文芸文庫) 』
太宰治著 『惜別 (新潮文庫) 』
竹内好著 『魯迅 (講談社文芸文庫) 』
沼野誠介著 『魯迅と日本 』 |
 孫文(そんぶん) | (1866〜1925) 広東省出身。少年時代にハワイに渡りキリスト教の洗礼を受ける。帰国後香港の医学校で学びマカオで開業した。その後政治結社「興中会」に加盟して清国打倒を目指す革命運動に加わった。革命思想「三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)」を発表、1905年、東京で「中国革命同盟会」を組織、1911年の辛亥革命を指導すると帰国して南京で中華民国を成立させ、臨時大統領となる。しかしすぐに袁世凱の謀略により退陣、日本に亡命した。1919年、「中国国民党」を結成、1921年には広東政府を樹立、1924年には国共合作に成功した。その後も三民主義の宣揚に努め、連ソ容共政策を取り、全国統一に全力を注いだが1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命未だならず)」との一節を遺言に残し北京で死去した。中国では今も「孫中山先生」と呼ばれ、中国、台湾両国から尊敬を受ける数少ない一人である。神戸には孫文ゆかりの記念館「移情閣」がある。 | ツイ・ハーク監督の大傑作 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地黎明』
駐日合作映画 『孫文 』
陳舜臣著 『孫文〈上〉武装蜂起 (中公文庫) 』
田所竹彦著 『孫文―百年先を見た男 』
孔健著 『中国新聞史の源流―孫文と辛亥革命を読む 』 |
袁世凱 (えんせいがい) | (1859〜1916) 中国江南省の豪族の生まれ。1881年に李鴻章の軍に加わり朝鮮に渡り壬午の変・甲申の変では閔妃に協力し鎮圧に貢献した。1894年東学党の乱に際し清軍の出兵を要請、日清戦争を誘発した。しかしこの戦争では敗北し清軍の再編のため強力な軍隊(のちの北洋軍)を組織した。1898年戊戌の変の際、康有為を裏切り西太后に近づき大臣となる。1911年辛亥革命の混乱に乗じて清朝を倒し、中華民国臨時大統領となる。第一次世界大戦勃発後の1915年、日本の21か条要求を受諾。孫文らに勝利して帝政を復活、自ら皇帝に就こうとするが独裁的な政治を進めたため国民の信頼を失い、中国のナショナリズムと反日・反袁運動が高まる中で没した。 | アーネスト・P. ヤング著 『袁世凱総統―「開発独裁」の先駆 (光風社選書) 』 |
蒋介石(しょうかいせき) | (1887〜1975) 中国浙江の塩商人の子。1907年、日本陸軍が清朝留学生のために創設した「振武学堂」で日本語を学び、卒業後に新潟・高田連隊の野戦砲兵隊の士官候補生となった。この留学中、東京で中国革命同盟会に入り孫文と出会い傾倒した。1911年辛亥革命が起こり帰国、上海で清朝軍と戦い、中華民国成立後は軍閥との内戦で頭角を現し、孫文の下で参謀総長などを務めた。孫文の死後は国民革命軍総司令として中国統一を目指し北伐を開始、1927年には上海クーデターを断行し共産党弾圧に乗り出し、南京政府を樹立した。1928年には北伐を完成させ、北京を占領して中国統一を実現、中華民国の主席となる。その後も共産軍との戦いは続いたが満州事変が起こり日中戦争が本格化すると国共合作をし、西安事件以降は国民政府主席として抗日統一戦線を指導した。しかし第二次世界大戦が終戦し日本が敗れると、毛沢東率いる共産党との対立が再び激化、1949年には戦局が不利になり、中国本土を追われ台湾に逃れた。以後は国民政府総統として米国の庇護のもと台湾に中華民国を建国した。87歳で死去するまで総統として台湾を指揮した。1971年に中華人民共和国が国連に認められると台湾は国連を脱退させられた。また、1972年に日本はアメリカに倣って中華人民共和国と国交を樹立したが、同時に中華民国との正式な国交が無い状態となった。これは現在まで続いている。 | 保阪正康著 『蒋介石 (文春新書) 』
黄文雄著 『蒋介石神話の嘘―中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像 』
家近亮子著 『蒋介石と南京国民政府―中国国民党の権力浸透に関する分析 』 |
張作霖 (ちょうさくりん) | (1875〜1928)
| (調査中) |
ビクター・リットン Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd Earl of Lytton | (1876〜1947) イギリスの政治家・外交官・伯爵。父はインドの総督でビクターも後を継いでいる。「満州国」が日本の傀儡国であり、侵略行為であるとして中国から国際連盟に提訴されたことを受けて、1932年、調査のため団長として現地に派遣された。この調査団は彼の名を取って「リットン調査団」と呼ばれた。彼がまとめた報告書によって日本の侵略行為が明らかにされ、「満州国は列国の共同支配が望ましいこと」が提議され、これが国際連盟の会議で採択された。松岡洋右率いる日本の代表団はこれを激しく抗議、国際連盟を脱退し、日本はこれを機に世界から孤立、一気に戦争への道を歩むことになった。因みに「リットン調査団」というお笑いコンビがある。 | 渡部昇一編・著 『全文リットン報告書 』
ハインリッヒ・シュネー著 『「満州国」見聞記―リットン調査団同行記 (講談社学術文庫) 』
池宮彰一郎によるノンフィクション小説 『事変―リットン報告書ヲ奪取セヨ (角川文庫) 』 |
ヒトラー (ヒットラー) Adlf Hitler | (1889〜1945) オーストリア生まれ。画家を目指してウィーンに出て、志願兵として第一次世界大戦に参加。ウィーンやミュンヘンで貧困生活を送る間に大ドイツ主義、反ユダヤ主義思想に傾倒。ミュンヘンでドイツ労働党に入党すると鋭い弁舌で頭角を現し、1920年には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス:NAZIS)を組織して党首になった。軍部・資本家の支持を受けて党は拡大、勢力をつけ、1923年いわゆるミュンヘン一揆を起こすが失敗。投獄されるが獄中で『わが闘争―民族主義的世界観 (マイン・カンプ)』を執筆した。釈放後も合法政党として党を再建し、1932年の総選挙でベルサイユ条約の破棄を主張して農民や中産階級の支持も取り付け、議会の第一党に進出。翌年には単独政党による内閣を結成し独裁体制を確立した。1934年ヒンデンブルグ大統領が死去すると「総統」と称して最高主権者となり、出版・言論の自由を無視し、労働組合の禁止、軍部・教育を支配するなど厳重な統制を敷き、また反対勢力を血の粛清によって撃退、大ドイツ民族主義で侵略的外交政策を開始。1936年ラインラントに進駐、1938年にオーストリアを併合。同年独伊英仏首脳会談でミュンヘン協定を成立させた。1939年独ソ不可侵条約を結ぶとポーランドに侵攻。これに対して9月3日英仏がドイツに宣戦。これが第2次世界大戦のきっかけとなり、ヨーロッパのみならず全世界を戦火に巻き込んだ。日本とは1936年に防共を目的に同盟を結んでいたが、翌年にはイタリアが加わり、さらに1940年にはこれが発展して日独伊三国同盟を結び、英仏米ソなどの連合国に対抗した。当初電撃作戦と優れた新兵器の導入などでドイツは軍事的成功をおさめた。この間ユダヤ人の大量虐殺、スラブ民族への奴隷的労働の強制、全世界の占領地からの物資の略奪を指導した。しかしスターリングラードでの敗北を機にやがてソ連・アメリカの軍事力に打ち破られ、戦勢は不利になり連合軍の大攻勢にあって敗退。1945年4月30日、陥落寸前のベルリンの総統官邸地下壕で愛人エバ・ブラウンと服毒死したと伝えられる。人類史上最大の「悪役」とされ、ハリウッド映画では「敵」の設定でよく描かれるが、当時のドイツではベルサイユ条約下の大不況にあり、民衆は貧窮していた。それを打破するための経済復興策を国民に明確に示し、失業者対策として公共事業を推進するなど強靭なリーダーシップを発揮した(もちろん他国への侵攻とユダヤ人の排除も含まれているが)。そのため圧倒的な支持を得たわけである。フォルクスワーゲンやアウトバーンなど「正の遺産」もある。 |
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ムッソリーニ Benito Mussolini | (1883〜1945)
| (調査中) |
| 張学良(ちょうがくりょう) | (1901〜2001) 張作霖の長男 | (調査中) |
リヒャルト・ゾルゲ Richard Sorge | (1895〜1944) ドイツ出身の国際的スパイ。1925年にモスクワでソ連共産党のために働き、後に上海で諜報活動を行った。この時、朝日新聞記者で近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実などと知り合う。1933年、「ナチス党員・新聞の特派員」の肩書きで来日、尾崎らと協力して情報収集を行うが、ソ連のスパイ活動であることが発覚し太平洋戦争開戦直前の1941年10月に、尾崎らとともに合計35人が特高に逮捕された(ゾルゲ事件)。ゾルゲの目的は日本の対ソ戦を阻止するための情報を収集するためだったとされ、ゾルゲの部屋には『古事記』や『源氏物語』の英訳書をはじめ多数の日本の研究書や自身が分析した精密な統計表などが残されていたという。また、駐日ドイツ大使館にも出入りし、ドイツのソ連侵攻の情報なども得ていた。その後裁判で極刑が言い渡され、尾崎とともに1944年に処刑された。ゾルゲが死んでおよそ20年後、スターリンが死んだ直後の1964年にソ連邦最高幹部会から「ソ連邦英雄」の称号が与えられている。 | 『ゾルゲ事件 獄中手記 (岩波現代文庫) 』
ロバート・ワイマント著 『ゾルゲ 引裂かれたスパイ(新潮文庫) 』
妻・石井花子著 『人間ゾルゲ (角川文庫) 』
篠田正浩監督 『スパイ・ゾルゲ 』 |
汪兆銘 (おうちょうめい) | (1883〜1944) 中国の革命家。広東省出身。号は精衛。清朝の官費生として日本の法政大学に留学。留学中に孫文の革命思想に影響を受ける。孫文の来日を機に中国同盟会が結成され、汪も活動家として加わった。1911年、摂政・醇親王載ほう(溥儀の父)の暗殺を企てるが失敗、終身犯となるも辛亥革命で恩赦された。その後孫文の側近として中国国民党結成に参画。左派を代表してたびたび反蒋運動を行った。後に蒋介石と合作したが、日中戦争が勃発すると徹底抗戦を貫く蒋介石と対立、重慶を脱出して1940年南京に親日反共を唱え国民政府を建てた。この政府は日本の傀儡と言われたが汪兆銘は主席兼行政委員長に就任し政治手腕を揮い、1943年の大東亜会議に南京国民政府代表として他のアジア諸国の首脳とともに出席するなどした。しかし約10年前に狙撃された時の傷が悪化し、1944年入院した日本の病院で死去した。 | 上坂冬子著『我は苦難の道を行く〈上〉―汪兆銘の真実 (文春文庫) 』
杉森久英著『人われを漢奸と呼ぶ―汪兆銘伝 』 |
川島芳子 (かわしまよしこ) | (1907〜1948) 粛親王の娘。本名を愛新覚羅顕シ(あいしんかくらけんし。シは王編に子)といい、溥儀や溥傑と同じく清国王族である。別名・金璧輝。王族の子として何不自由なく育ったが1911年辛亥革命が起こり清が滅亡、1915年、6歳の時、粛親王と親しかった清朝政府顧問川島浪速の養女となり来日。「川島芳子」となって東京の跡見女学校、長野の松本高女で学ぶ。実父の死や高女から退学されるなどの事件を経て、17歳の時突然断髪、「女」を捨てたという。1927年蒙古の王族カンジュルジャップと結婚するが不和となり、離婚。以後上海などに渡り日本の特務機関(上海の公使館付武官・田中隆吉中佐)と接触、諜報活動などに従事。「男装の麗人」「東洋のマタハリ」と呼ばれた。1931年満洲事変が勃発、清朝最後の皇帝溥儀を執政とする満洲国が日本政府の後押しで中国東北部に成立すると、その運営に協力した。この頃芳子をモデルにした村松梢風の小説『男装の麗人』が発表され、芳子は「日本軍に協力する清朝王女」として世間の注目を浴びた。1933年、芳子は安国軍総司令官という肩書で熱河作戦に従軍。関東軍はさらに「東洋のジャンヌ・ダルク」として喧伝した。しかし「暗躍する女スパイ」というイメージとは違い、雑誌の取材を受け、ラジオ出演やレコードまで出すなど当時のアイドルのような活動をし、山口淑子らとも交流があり、中華料理店を経営するなど社交界でも目立った存在だった。日本国内では人気を博したが、満州国が日本の傀儡政府であることが明らかになると彼女の批判的な言動が目立つようになり、関東軍から「危険人物」とみなされるようになった。太平洋戦争が終結すると中国人からも祖国を裏切った人物として北京で国民党政府軍に捕らえられ、1948年3月25日北京で銃殺刑に処せられたとされる。最近になって実は処刑を逃れ、旧満州の中国吉林省長春市で 1978年まで生存していたとの説が浮上した。 | 上坂冬子著 『男装の麗人・川島芳子伝 (文春文庫) 』
村松友視著 『男装の麗人 』
寺尾紗穂著 『評伝 川島芳子―男装のエトランゼ (文春新書) 』
林えり子著 『清朝十四王女―川島芳子の生涯 (ウェッジ文庫) 』
『ラストエンペラー(ディレクターズ・カット)
』 |
チャーチル Winston Churchill | (1874〜1965) イギリスの政治家。陸軍士官学校を卒業後キューバ、インド、アフリカで軍人や従軍記者として活躍。1899年、南アフリカのボーア戦争を取材中敵に捕らえられて捕虜となるが脱出して帰国、翌年に保守党から立候補、下院議員となる。のちに自由党に移り、民地相次官、商務相、内務相を歴任、第一次世界大戦中は海軍相を務めるがガリポリの戦い(1915年)で敗北し失脚。しかしその後軍需大臣、財務相を歴任し次第に頭角を現し、第二次世界大戦開戦直後に再び海軍相となり、1940年にはチェンバレンの後を受けて首相となった。アメリカのルーズベルト大統領らと連合国軍を結成し日独伊の枢軸国を倒した。この時の体験をもとに『第二次世界大戦回想録 』(1953年ノーベル文学賞を受賞)を書き、ここにはわずかだが日本との関係と戦争に至った経緯などが書かれている。また、チャーチルの母は明治(日清戦争中)時代の日本を訪れ一ヶ月間旅行しており、回想録を残している。チャーチル自身もその影響からか本来は親日派だったと言われ、日本についての著作が他にもいくつか残されている。 | |
フランクリン・ルーズベルト Franklin Delano Roosevelt | (1882〜1945) 第32代アメリカ大統領。セオドア・ルーズベルトの従兄弟にあたる。ハーバード、コロンビア両大で学び弁護士となる。1910年、民主党のニューヨーク州選出上院議員に当選、政治の道に入り、ウィルソン大統領の下で海軍次官を務めるが持病の小児麻痺が悪化し一時療養生活に入った。1928年、ニューヨーク州知事に当選、1932年民主党大統領候補に選ばれ、フーバーに圧勝し大統領になった。アメリカの大恐慌をニューディール政策などで克服。第二次世界大戦では英ソとともに連合軍を指揮し日本に対抗、アメリカを勝利に導いた。アメリカ国民の人気は凄まじく史上初の大統領四選を果たしたが任期途中で急死し、副大統領トルーマンが大統領に昇格した。 | ドキュメンタリーDVD 『バイオグラフィー 20世紀の指導者「フランクリン・D・ルーズベルト」 』
産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班著 『ルーズベルト秘録〈上〉 』
エマヌエル・マン・ジョセフソン著 『ルーズヴェルトが20世紀をダメにした (トクマブックス―世界統一支配をめざす妖怪の正体) 』 |
コーデル・ハル Condell Hull | (1871〜1955) フランクリン・ルーズべルトの下で1933年から1944年まで国務長官を務めた(歴代最長)。太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日にアメリカ側から日本側(野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使)に提示された交渉文書いわゆる「ハル・ノート」を提案した。日米開戦に当たっては「最後通牒」であるかどうか今なお議論されている。戦後は国際連合の創設に尽くし1945年のノーベル平和賞の受賞者。
| 『ハル回顧録 (中公文庫BIBLIO20世紀) 』
須藤真志著 『日米開戦外交の研究―日米交渉の発端からハル・ノートまで 』 『ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦 (文春新書) 』 |
スターリン Iosif Vissarionovich Stalin | (1879〜1953) 1922年から死去する1953年までソビエト連邦共産党書記長を務めた。本名はジュガシビリ。スターリンは「鋼鉄の人」という意味でペンネームである。ロシア帝国時代のグルジアの貧しい靴屋の子として生まれる。名門の神学校に在学中に社会民主労働党の秘密組織に加わり革命運動に身を投じ、ストライキなどを指導。投獄と脱獄を繰り返した。この間にレーニンに認められ党中央委員となった。1917年ロシア10月革命では民衆の武装蜂起を指揮、ソビエト成立後はレーニンの片腕として活躍。1922年にレーニンの推薦を受けて書記長にに選ばれ、以後は党内で対立していたトロツキーやブハーリンとの論争に勝利し彼らを追放、一国社会主義を掲げて独裁体制を整えた。農業の集団化、軍の近代化を強引に進め、1934年には党内だけでなく市民の反対派も追放(大粛清)。1936年に新憲法を制定しスターリン個人崇拝を築く。第二次世界大戦が勃発するとドイツと戦い、米英とヤルタ、ポツダム両会談を通じてソ連の国際的地位を向上させるが、日本とは1941年に日ソ中立条約を結び、互いに干渉をしない方針を取った。しかしヤルタ会談では、米英と密かに「ドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること」を条件に南樺太・北方領土を領有する約束をしていた。1945年8月、日本の敗戦が決定的になった時に中立条約を一方的に破棄し、満州に侵攻。日本政府はポツダム宣言を受諾し敗戦を認めるが、それを無視したソ連は引き続き南樺太・千島・満州国の日本軍を攻撃。満州などの日本兵を拘束しシベリアに連行し強制労働に当たらせるなど非人道的な行為を行い(後に釈放)、さらに北方領土を占領、これは現在に至っている。戦後もスターリンは独裁政権を継続、東欧諸国の社会主義化を推進し、米英仏など自由主義国家と対立する構図を作った(冷戦)。これはドイツ、朝鮮半島、ベトナムなどを分割する結果を招いた。1953年脳卒中で倒れ重態が伝えられると全世界で株が急暴落(スターリン暴落)し混乱を招いた。死後3年後の1956年のソ連党大会で「スターリン批判」が出され、反対派を虐殺した事実などが明らかにされ、その独裁・個人崇拝が総括された。独ソの激戦地であった現・ロシア連邦のヴォルゴグラード市はスターリンの名をとって1925年から1961年まで「スターリングラード」と名づけられている。 | 『スターリングラード大攻防戦 [DVD] 』
『スターリングラード [DVD] 』
斎藤勉著 『スターリン秘録 』
亀山郁夫著 『大審問官スターリン 』
大森実著 『スターリン―鋼鉄の巨人 (講談社文庫―人物現代史) 』
エドワード・ラジンスキー著 『赤いツァーリ―スターリン、封印された生涯〈上〉 』
松岡完著 『冷戦史 -その起源・展開・終焉と日本- 』
下斗米伸夫著 『北方領土Q&A80 (小学館文庫) 』 |
トルーマン Harry S.Truman | (1884〜1972) 第33代アメリカ大統領。第二次世界大戦中、ルーズベルト大統領の急死を受けて副大統領から急遽大統領に選出された。終戦処理を決めるポツダム会議に出席。日本の降伏を早めるため広島・長崎への原爆投下を命じた。戦後はソ連などの共産主義国と対抗するためトルーマン=ドクトリンを発表、共産主義封じ込め政策をとった。また朝鮮戦争勃発時には米軍を韓国側支援のため派兵。1951年には作戦上の意見対立からマッカーサーを退任させた。 | イーブン・A. エアーズ著『ホワイトハウス日記 1945‐1950―トルーマン大統領とともに (20世紀メモリアル) 』
吉田文彦著『核のアメリカ―トルーマンからオバマまで 』 |
マッカーサー Douglas MacArthr | (1880〜1964) フィリピン占領軍総司令官・初代軍事総督アーサー・マッカーサーの子としてアーカンソー州に生まれる。名門ウェストポイント陸軍士官学校を学校始まって以来といわれる好成績で卒業。米陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに配属された。1905年、父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、副官として日本で勤務。この時日露戦争を観戦。東郷平八郎、乃木希典らとも会見している。またアジア各地を視察し、アジアの国政や軍時情勢などを熟知した。第一次世界大戦ではフランス戦線に従軍し、ドイツ占領行政を経験。陸軍士官学校長、参謀総長などを経て1935年フィリピン軍の軍事顧問となる。その後日米関係の緊迫化に伴いルーズベルト大統領により1941年7月極東陸軍司令官に任命された。12月の開戦後は大将となり、対日戦争を指揮した。しかしフィリピン戦線では苦戦し、バターン半島やコレヒドール島で何とか善戦したものの、結局敗退を余儀なくされ一時オーストラリアに撤退した。この時発した「I shall return (私は必ず戻って来る)」の言葉は有名。1944年、マッカーサーは西南太平洋方面連合軍総司令官として先鋭の大部隊を率いてレイテ島に上陸し反攻、一気に山下奉文指揮下の日本軍を撃退。遂にフィリピン全土を奪還、日本軍の侵攻を事実上終結させた。この功によりこの年の12月には元帥に昇進。1945年、日本の降伏とともに連合国最高司令官兼米極東軍事最高司令官に任命され、8月30日に神奈川・厚木基地に進駐した。その後東京・日比谷の第一生命ビルを接収し総司令部(GHQ)を置き、米国政府の指令の下、政治犯釈放、農地改革、労働改革、財閥解体、公職追放等民主化政策を推し進め日本の再建を指導。また天皇制存続、戦争放棄、封建制廃止をうたった新憲法を発布させるなど、戦後日本の政治・経済・思想に計り知れない大きな影響を与えた。1950年、朝鮮戦争が勃発すると北朝鮮の猛攻に戦局は厳しかったが、国連軍総司令官として韓国軍を助け、仁川上陸作戦などを強行策を執って北朝鮮軍を撃破、ソウルを奪還するなど大きな功績をあげた。しかし中国への攻撃を強硬に主張したためトルーマン大統領と対立し、1951年突然一切の職を解任されてリッジウェイに後任を託し帰国した。帰国の際は空港への沿道に20万人の日本人が集まりマッカーサーに謝意を表した。帰国後、ワシントンの議場で引退の宣言として「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」という歴史的な名スピーチを残した。翌日行われたニューヨークでのパレードは約700万人が集まったと言われる。その後共和党の大統領候補に推されたが実らずトルーマンに敗れた。マッカーサーにとって日本は敵国ではあったが、若い頃父と過ごした地であり、また新婚旅行で訪れた懐かしい国でもあった。最高司令官として日本滞在中はプライベートで密かに何度か京都や奈良、日光など観光地を訪問している。ペリーとともに日本史上最も重要な外国人であろう。 | グレゴリー・ペックが演じた伝記映画『マッカーサー』、映画では『太陽』、『小説吉田学校 』『戦争と追憶 戦争の黙示録』『インチョン(仁川)!』などでも描かれている。
『NHK「その時歴史が動いた」 昭和天皇とマッカーサー会見の時~日本を動かした1枚の写真~「日中・太平洋戦争編」 [DVD] 』
『マッカーサー大戦回顧録〈上〉 (中公文庫BIBLIO20世紀) 』
袖井林二郎著 『マッカーサーの二千日 (中公文庫) 』
豊下楢彦著 『昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫) 』
児島襄著 『日本占領〈1〉 (文春文庫) 』
工藤美代子著 『マッカーサー伝説 』 |
ジョセフ・キーナン Joseph Berry Keenan | (1888〜1954) 東京裁判の主席検察官。ブラウン大→ハーバード大学卒の弁護士だったが1933年連邦検事総長補佐官に抜擢され、ルーズベルト大統領の司法関係の側近としてリンドバーグ法(州外誘拐者処罰法)の草案などを手がけた。1946年にはトルーマン大統領から指名を受け東京裁判の主席検事に任命され来日。A級戦犯28人全員を有罪とし、東条英機ら7人を絞首刑にし「鬼検事」の異名をとった。米政府・マッカーサーの意向を受けて「昭和天皇を起訴せず・証人にせず」の姿勢を貫いたといわれる。裁判終了後1948年からは国連パレスチナ委員会米国代表となった。 | 菅原裕著 『東京裁判の正体 』
日暮吉延著 『東京裁判 (講談社現代新書 1924) 』
松本清張著 『砂の審廷―小説東京裁判 (ちくま文庫) 』
小林正樹監督のドキュメンタリー映画『東京裁判 』 |
ラダ・ビノード・パール(パル) Radha Binod Pal | (1886〜1967) インド出身。東京裁判の判事 | 東京裁判研究会編・著 『共同研究 パル判決書(講談社学術文庫) 』
中島岳志著 『パール判事―東京裁判批判と絶対平和主義 』 |
愛新覚羅溥儀 (あいしんかくらふぎ・Pui) | (1906〜1967) 中国清、満州国皇帝。3歳で即位しその3年後辛亥革命で退位した。その後は袁世凱の保護を受けて北京の紫禁城で暮らしたが、袁世凱の死後は日本の保護を受け、満州事変が起こると日本軍に担ぎ出されて旅順に赴き日本が築いた傀儡国である満州国の皇帝となった。1945年に日本が降伏するとソ連軍に捕らえられて抑留される。極東軍事裁判(東京裁判)では証人として来日し出廷した。1959年に許されて釈放。その後は中国共産党の下、北京で余生を送った。弟溥傑は日本人女性と結婚した。 | 『わが半生―「満州国」皇帝の自伝〈上〉 (ちくま文庫) 』
入江曜子著『溥儀―清朝最後の皇帝 』
『ラスト・エンペラー』 |
ジョゼフ・ドッジ Joseph Morrell Dodge | (1890〜1964) 米デトロイト生まれの財政家。小さな地方銀行を有数の銀行にした手腕を買われ、1945年ドイツ占領軍の金融顧問を務める。1945年マッカーサーの経済顧問に就任し来日、日本経済の自立のため予算の建て直し・為替レートの設定などを行う。「日本経済は竹馬に乗っているようなもの。片足はアメリカの援助、もう片方は国内の補助金。竹馬の足を高くしすぎると転んで首を折る危険がある」と補助金打ち切りなどを決めた。この荒療治ともいえる経済政策は「ドッジライン」と呼ばれ、1949年に実施され、一時日本経済は不況になって物価上昇に歯止めがかかり「安定恐慌」に突入した。しかしこれを機に日本経済界に自立の機運が高まり、以後の高度成長の礎となった。 | 伊藤正直著 『戦後日本の対外金融 -360円レートの成立と終焉-
』 |
シャウプ Carl Summer Shoup | (1902〜2000) アメリカの経済学者。税問題の権威。コロンビア大学教授で『全国税務協会雑誌』などの編集出版を行い、州や連邦の税制・財政の調査官を歴任した。1949年日本の税制調査のため来日し『シャウプ勧告書』を発表、これをもとに戦後日本は地方税制を中心とする税制大改革を行った。 | 『シャウプの証言―シャウプ税制使節団の教訓 』 |
マシュー・リッジウェイ Matthew Bunker Ridgway | (1895〜1993) マッカーサーの後任の連合国最高司令官。ウェストポイント米陸軍士官学校卒。同校の教官、フィリピン総督の軍事技術顧問などを経て1942年に准将に昇任。空挺師団長としてノルマンディー上陸作戦やドイツ侵攻を指揮し軍功をあげ中将に昇進。1944年からマッカーサーの下で太平洋戦線に参加、ルソン島での戦闘を指揮した。1950年、朝鮮戦争が勃発すると第8軍司令官に就任。マッカーサー国連軍総司令官の下、北朝鮮・中国軍の攻勢に対し壊滅寸前であった国連軍を建て直し反撃に転じさせることに成功、大きな戦果を上げた。マッカーサーが解任されると、大将に昇進して、1951年4月からサンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約が発効して日本の占領が解除された1952年4月まで連合国軍最高司令官として日本の占領政策を行った。日本を離れてからはNATO軍最高司令官、陸軍参謀総長を歴任。アイゼンハワー大統領にベトナム戦争への介入に反対する意見を述べたといわれている。 | 『朝鮮戦争 』
マーク・ゲイン著 『ニッポン日記 (ちくま学芸文庫) 』
竹前栄治著 『GHQの人びと―経歴と政策 』 |
ルース・ベネディクト Ruth Benedict | (1887〜1948) アメリカの文化人類学者。コロンビア大学でフランツ・ボアズに師事しわずか三学期で博士号を取得、主にアメリカ先住民の研究を中心に様式学派の文化人類学を確立した。後コロンビア大学の教授になり、反社会ダーウィン主義の立場で『文化のパターン』などの本を著した。1943年米政府情報局から日本占領の可能性から日本人の性質についての研究を依頼され、日本についての文献や日本映画、日系人との面談などをもとに日本人の気質についてまとめた『菊と刀』を著した。日本人の行動の基本パターンは「恥」からとする説は戦後日本においてもセンセーショナルとなりこの書は今なおロングセラーとなっている。それにしてもルース・ベネディクトが一度も来日もせずに書いたとは驚きである。 | 『菊と刀―定訳 (現代教養文庫 A 501) 』
森貞彦著 『『菊と刀』再発見 』 |
ローレンス・ヴァン・デル・ポスト Laurens Van der Post | (1906〜1996) 作家、探検家、哲学者、軍人、ジャーナリストなど多彩な活躍をした。イギリス人だが、オランダ系ボーア人として南アフリカに生まれ育った。南アフリカで雑誌の記者・編集者などを経て、1926年には森勝衛船長のはからいで貨物船かなだ丸に乗って来日、約1年に渡って日本文化を研究した。1942年、第二次大戦では英国陸軍将校としてジャワ島に渡り日本軍と戦うが敗れ、片言の日本語で命乞いをして捕虜となり、その後は収容所で過ごす。死と隣り合わせの過酷な条件下の収容所では捕虜たちと「学校」を設け、この時の経験から『影の獄にて』を執筆。その中の短編『影さす牢格子』と『種子と蒔く者』が大島渚の映画『戦場のメリークリスマス』の原作になった。戦後は南アフリカで農園を営むと同時に英国政府の要請でアフリカ各地を旅し、レポートやドキュメンタリー映画を作製。また、心理学者ユングと交流しその影響下で多くの著作をものにした。晩年はイギリス政府の顧問、チャールズ皇太子の心の師としても活躍。アパルトヘイト反対運動の活動家、ブッシュマンの研究家として著書『カラハリの失われた世界』も世界的に有名。 | 戦場のメリークリスマス―影の獄にて 映画版 |
アンドレ・マルロー Andre Malraux | (1901〜1976) フランスの作家、冒険家、美術評論家、政治家。パリ近郊に生まれ、東洋語学校で東洋の言語を学ぶ。ここで多くの芸術家と交わり彼らから大きな影響を受けた。フランスのアジア植民地政策に批判的だった彼は、1922年、妻と共にカンボジアに行くが盗掘の容疑で禁固刑となる。妻がパリの友人たちに働きかけ、アンドレ・ジッドら著名人から署名が集められ、減刑されてパリに戻った。この時の経験を元に小説『王道』を書いた。1931年には再びアジア諸国を訪問、10月には初来日を果たしている。1933年には上海の共産主義政権を描いた『人間の条件』を書き、フランスにおける最も権威ある文学賞ゴンクール賞を受賞した。「戦う作家」としてスペイン内戦では国際義勇軍の飛行隊長を務め、第二次世界大戦ではフランス軍に従軍、その後レジスタンス活動家として活躍。1944年ゲシュタポに逮捕され、処刑寸前に仲間に救出されるという体験をしている。その直後、ド・ゴール将軍(後の大統領)と知り合い、戦後の臨時政府では情報大臣に任命された。1950年代から60年代にド・ゴールが大統領として活躍する頃には国務大臣や文部大臣として重用された。この間に日仏文化交流に尽力、1974年には4度目の来日をし、伊勢神宮などを見学、日本の陶器や美術、茶道など「日本美」について研究をした。ゴヤなどの美術評論、ナポレオンの研究でもよく知られている実にマルチな人だった。 |
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毛沢東 (もうたくとう) | (1893〜1976)
| (調査中) |
周恩来 (しゅうおんらい) | (1898〜1976) 中国の革命家、政治家。中学を卒業後の1917年に日本に留学。明大や京大に学んだ後、フランスに留学。フランスで中国共産党に入党し次第に頭角を現した。帰国後は労働者の武装蜂起を指導して革命軍の指揮者として知られるようになった。日中戦争の時は蒋介石の国民党に内戦を中止して一致して日本に抵抗することを承知させるなど手腕を発揮、一躍世界に名を知られた。その後抗日戦争を指導した毛沢東とともに共産党の代表となり、蒋介石とともに日本と戦い、勝利を収める。しかし戦後蒋介石率いる国民党とは袂を分かち内戦の末、台湾に追いやり、こうして中国共産党は中華人民共和国政府を設立。蒋介石は国務院総理と外交部長を兼任。中ソ友好同盟条約の締結、ジュネーブ会議でインドシナ戦争終結の実現、インド・ネルー首相との対談で平和五原則の提唱など数々の国際会議で活躍した。日本とは終戦後国交が無かったが、1972年、ニクソン大統領訪中で米中の国交が始まると日本の田中角栄も訪中し、国交回復を果たした。 | (調査中) |
| 金日成(きんにっせい・キムイルソン) | (1912〜1994)
| (調査中) |
李承晩 (りしょうばん・イスンマン) | (1875〜1965) 朝鮮黄浦道出身の政治家。李王室の枢密顧問を務めたが政治陰謀が発覚して投獄。釈放後に米国に留学。日韓併合後1913年に帰国し抗日独立運動の活動家として活躍。しかし寺内正毅朝鮮総督暗殺計画が失敗し再び投獄される。1919年に上海で韓国臨時政権を立てて大統領に就任したが日本軍などの激しい弾圧にあい再び米国に亡命した。戦後朝鮮半島に戻り大韓民国建国に尽力し初代大統領に就任。反対派を駆逐し強力な独裁体制をしき、四期13年を務め、米国との折衝、北朝鮮との戦争を指揮した。1952年一方的に竹島を含む広い公海に主権を主張し(李ライン)、日本漁船の拿捕などを行い、日本から激しい非難を浴びた。 | 李昊宰著 『韓国外交政策の理想と現実―李承晩外交と米国の対韓政策に対する反省 (韓国の学術と文化) 』 |
朴正熙 (パク・チョンヒ) | (1917〜1979) 日本統治下の朝鮮・慶尚北道の貧しい農家の出身。幼い頃から優秀で知られ大邱師範学校を優等で卒業、慶北聞慶国民学校で教師をしていた。その後満州国軍官学校を卒業し優等のため選抜されて日本に留学した。創氏改名により高木正雄と名乗り、陸軍士官学校に入学。1944年士官学校を3位という好成績で卒業すると、関東軍に配属され満州国軍中尉で終戦を迎えた。戦後は韓国陸軍士官学校に入り、朝鮮戦争時には情報畑で活躍。1957年には陸軍大学を出て、師団長、軍需基地司令官などを歴任。1961年、クーデターを起こして軍事革命委員会副議長に就き、後に大将として軍部の最高指導者を兼務。1963年には民主共和党党首として大統領選に立候補し当選。アメリカと結んで軍備の強化、日韓条約の締結(日本との国交回復)、ベトナム派兵など反共・親米路線の政治を推し進めた。また数次に渡る「五カ年計画」の経済計画を立て高度経済成長を達成した。大統領選には3選し圧倒的な支持を得ていたが、1973年の金大中事件を契機に、民主化運動への弾圧や政治腐敗・独裁政治に批判が高まった。1974年の光復節の日には朴正熙を狙った弾がそれて夫人陸英修が殺されるという事件が起こる(文世光事件)。その後1979年に側近のKCIA部長金載圭によって本人も暗殺された。 | 河信基著 『韓国を強国に変えた男 朴正煕―その知られざる思想と生涯 (光人社NF文庫) 』
趙甲済著 『朴正煕、最後の一日―韓国の歴史を変えた銃声 』
小谷豪治郎著 『韓国危うし―朴正煕と金鍾泌を再評価する 』 |
バイニング Elizabeth Gray Vining | (1902〜1999) アメリカ・フィラデルフィア生まれの女流作家。ドレクセル大学卒後、ノースカロライナ大学チャペルヒル校で図書館司書をしていたが、夫が交通事故で急死した後作家活動に入り、青少年向けの作品を書いていた。第二次大戦後に日本の皇太子(現・今上天皇)がアメリカ婦人の家庭教師を求めていることを聞き応募、数百人の候補者から選ばれて1946年来日。皇太子の12歳から17歳までの5年間を教え、英語だけでなく御人格にも大きな影響を及ぼしたとされる。また、学習院大、津田塾大などでも講義を行っている。その功で瑞宝章を受賞。1950年に帰国後はそれらの体験を元に『皇太子の窓』1952を執筆、日米でベストセラーになった。その後1960年には『日本再訪』を上梓した。 | 『皇太子の窓 』
『天皇とわたし 』
『旅の子アダム 』 |
ブルーノ・タウト Bruno Julius Florian Taut | (1880〜1938) ドイツの建築家・都市計画家・工芸デザイナー。グロピウス、ル・コルビジェなどの「国際建築」に関わり、『鉄の記念塔』『ガラスの家』等の独創的な建築作品で名を成した。ドイツ工作連盟に参加し、1924年、シュトウットガルトの集合住宅ワイセンホーフ・ジードルングの設計などで国際的な注目を浴びた。その後ソ連に渡って活動したがナチスから親ソ連派とみなされたタウトは職と地位を奪われ、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年夫人とともに日本を訪れ、そのまま亡命した。以前からジャポニズムで日本に興味を持っていた彼は、伊勢神宮や桂離宮といった建築や、美術、歌舞伎などの文化に触れ、日本の美を再評価した。その後は主に群馬県高崎に滞在、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かしたモダンな工芸品や熱海の日向邸の設計などを発表、また仏像・絵画や陶器といった日本の美や桂離宮に関する著作など多くを残した。3年あまり日本に滞在した後トルコに移住、その地で死去した。黒澤明は自分のデビュー作用に彼をモデルにした『達磨寺のドイツ人』というシナリオを書いた。 | 『日本美の再発見 (岩波新書 新赤版 (39)) 』 『ニッポン―ヨーロッパ人の眼で見た (講談社学術文庫) 』
ワタリウム美術館著 『ブルーノ・タウト―桂離宮とユートピア建築 』 |
オイゲン・ヘリゲル Eugen Herrigel | (1884〜1955)
| (調査中) |
ピエール・ブール Pierre-Francois-Marie-Louis Boulle | (1912〜1994) フランス・アヴィニョン生まれ。理学士と電気技師の称号を得た後、エンジニアとして1936年にマレーシアへ渡ったが第二次世界大戦が勃発、1939年に仏領インドシナで軍に召集され秘密諜報部員として東南アジア諸国で活躍していた。しかし1943年にメコン川でヴィシー政権軍によって捕らえられ、1年半に渡り日本軍の捕虜として収容所生活を送った。この時の厳しい体験を元に、日本軍の命令で捕虜である英仏の兵士たちがタイとビルマを結ぶ400マイルにわたる鉄道敷設とクワイ河架橋の建設という過酷な生活を描いた『戦場にかける橋』(1952)、野蛮な生物に文明人が支配される世界を描いた『猿の惑星』(1963)を執筆した。両作品ともハリウッドで映画化されヒットしている。また、日本人の科学者がロケットを発明し自ら月に行くが、宇宙船が故障して地球に帰れなくなり切腹するという『月への挑戦』(別題『カナシマ博士の月の庭園』) - Le Jardin de Kanashima (1964)珍作SFもある。 | 『戦場にかける橋 (ハヤカワ文庫 NV フ 15-1) 』 |
ノーマン・メイラー Norman Mailer | (1923〜2007) 現代アメリカを代表する作家のひとり。ベトナム反戦をテーマにした『夜の軍隊』、マリリン・モンローを書いた『マリリン』、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンを描いた『ザ・ファイト』やアポロ計画についての『月にともる火』などあらゆる事象に興味を持って書いた。『夜の軍隊』と『死刑執行人の歌』でピュリッツァー賞を2度受賞している。ベトナムや中東戦争を厳しく批判をしており、現代アメリカ社会に大きな影響を与えた評論家・思想家・哲学者としても良く知られている。ハーバード大学在学中に作家デビューしているが、卒業後は太平洋戦争のレイテ戦などに従軍し、終戦後はそのまま日本の千葉県銚子や福島の小名浜に駐留していた。帰国後パリのソルボンヌ大学に留学するが、それまでの間に自身の体験を元に書いた『裸者と死者』(1948)によって、一躍世界で知られる存在となった。この小説は今なお戦争小説の金字塔的作品と呼ばれ、戦死した日本軍将校イシマル少佐の遺品の日記を、日系米軍将校ワカラ少尉が英訳するという形をとってあり、日本軍が占領する太平洋の孤島で戦い死んでゆく米軍の小隊を描いた(映画化もされている)。また『ゲイシャ・ハウス The Paper House』は銚子が舞台である。
 | 『なぜわれわれは戦争をしているのか
』 |
ドナルド・キーン Donald Lawrence Keene | (1922〜) ニューヨーク生れ。16歳でコロンビア大学に入学、『源氏物語』に感動して日本文学の研究を始め、同大学院に進学。大戦中は海軍に所属し、日本語の通訳官として太平洋戦争に従軍。戦後はハーバード大でエリセーエフに師事、後ケンブリッジ大学を経て、1953年京都大学大学院に留学。1955年よりコロンビア大学教授、また同大で文学博士号を取得、現在コロンビア大学名誉教授、早稲田、慶応などで名誉博士、日本学士院客員を務める。日本文学の研究、海外への紹介などの功績によって62年、菊池寛賞、83年、山片蟠桃賞、90年、全米文芸評論家賞、93年、勲二等旭日重光章を受章。2002年、文化功労者、2008年文化勲章を受賞した(外国人の文化勲章受賞はアポロ11号の月面着陸した宇宙飛行士3人以来の快挙)、『百代の過客』(読売文学賞、日本文学大賞)、『明治天皇』(毎日出版文化賞)など著書多数。日本文化の紹介と異文化交流の場として1986年コロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立され、また海外で日本文化振興に大きく寄与した個人・団体に贈る「ドナルド・キーン日本文化振興賞」も主宰している。 | |
セルゲイ・エリセーエフ Serge Elisseeff | (1889〜1975)
| (調査中) |
エドワード・G・サイデンステッカー Edward George Seidensticker | (1921〜2007)
| (調査中) |
ドナルド・リチー (リッチー) Donald Richie | (1924〜) 米国オハイオ州生まれ。第二次世界大戦中は水夫としてヨーロッパ海域での海上輸送に従事。戦後間も無い占領時代の1946年に米軍準機関紙『パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス』紙の記者として来日。来日直後から川喜多かしこの知己を得て日本映画に傾倒。占領終了後は一時帰国し1949年から53年までコロンビア大学に在学し学位を得、再来日。以後、『ジャパンタイムズ』の映画評論、芸術批評家として活躍。米紙『ニューヨークタイムズ』『ワシントンポスト』などに日本映画や日本文化について寄稿し、精力的に日本を海外に紹介。特に小津や黒澤の映画を海外に知らしめた功績は大きい。半世紀以上にわたり日本を拠点に作家・評論家として第一線で活動を続けている。『黒沢明の映画 The Films of Akira Kurosawa』、『小津安二郎の美学―映画のなかの日本 Ozu』、『日本映画ガイド One Hundred Years of Japanese Film』を含め数々の著書を出版。また、生涯60年間過ごして来た日本について『美しい日本―Introducing Japan』、『The Island Sea』、『ジャパニーズ・ポートレイト Japanese Portraits』、『The Japan Journals』を含め40冊以上の著書がある。1968年から1973年にかけて、ニューヨーク現代美術館のキュレーターを務める。『タイム』誌より「日本芸術批評家の最高権威」と称され、女流作家スーザン・ソンタグからも「ドナルド・リチーは類い稀なる視点で、鋭くしかも機知に富んだ方法で日本を描いている」と称されている。また、1960年代には実験映画の作家として何本か作品を発表している。また、黒澤明の『影武者』『夢』の英語字幕も手がけた。80歳を越えなお精力的に執筆や講演など活動を続けている。 | |
ダレス John Foster Dulles | (1888〜1959) アメリカの国務長官。国際連合の米代表を歴任。太平洋戦争後の対日講和条約、日米安全保障条約・行政協定を成立させた。1953年にアイゼンハワー大統領の下で対ソ強硬策を取り「冷たい戦争」を推進した。 | 村川一郎著 『ダレスと吉田茂―プリンストン大学所蔵ダレス文書を中心として 』 |
ブルガーニン Nikolai Aleksandrovich Bulganin | (1895〜1975) ソ連の軍人・政治家。1917年共産党に入党、主に経済部門で成果をあげ、1931年にはモスクワ・ソビエト議長、副首相を歴任。第二次大戦中は軍事委員として独ソ戦で大きな功を成した。1955年、首相に選任され、翌年には鳩山一郎首相をモスクワに招いて領土問題を話し合い、日ソ共同宣言を発し、国交を回復させた。 | (調査中) |
クリスチャン・ハーター Christian Herter | (1895〜1966) アメリカの国務長官。ハーバード大学を卒業後外交官としてドイツ・ベルリンのアメリカ大使館に勤める。1931年、マサチューセッツ州選出の下院議員となり外交政策に強い議員として活躍した。1953年、マサチューセッツ州知事に当選。1957年、アイゼンハワー大統領政権の国務次官に任命され、「ハーター委員会」を組織、ヨーロッパ復興支援の基本政策「マーシャル・プラン」に発展させ、成功させた。1959年には死去したダレスの後を継ぎ第53代国務長官となり、2年あまりの間、日米安全保障条約の定款に従事した。 | 豊下楢彦著 『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書) 』 |
ニクソン Richard Milhous Nixon | (1913〜1994) 第37代アメリカ大統領。弁護士出身で下院・上院議員を歴任、1953年アイゼンハワー大統領の下、39歳の若さで副大統領に就任。1961年の選挙ではケネディに敗れたが1969年に大統領に就任。1969年には佐藤首相との会談で安保延長・在沖縄米軍の駐留維持と引き換えに沖縄返還に同意した。1971年突如ドルの金互換停止を発表、ドルショックを引き起こす。東京の株式市場は史上最大の暴落を記録、円が変動為替制に移行することになった。対外的には中国との国交回復、ベトナム戦争停戦などを推進し日本にも大きな影響を及ぼした。ウォーターゲート事件で失脚し任期半ばで大統領を辞任した。 | |
ライシャワー Edwin Reischauer | (1910〜1990) 父カール・ライシャワーはオーストリア系アメリカ人の宣教師で明治学院大学の教師。後に東京女子大学の創立などに尽くした人物だった。その関係でライシャワーは東京で生まれ、以後日米を行き来して教育を受けていた。米ハーバード大学では日本と中国の言語・文化を学び、後に仏、中国、及び東京帝国大に留学。ハーバードの東洋言語学部の教授になった。太平洋戦争中は両親とともに帰国し、日本の研究者として暗号解読など軍に協力をした。しかし日本の民主化には天皇が必要なこと、日系人の強制収容と原爆投下には絶対反対の立場をとった。戦後、マッカーサーからブレインとして来日を請われたがそれを蹴り、ハーバード大イェンツェン(東洋学)研究所の所長の座に就く。しかしその後ケネディ大統領の要請で1961年から5年間駐日大使を務め、60年安保闘争当時、日本人の強い反米感情を和らげ、日米関係の改善に尽くした。しかし1964年大使館内で日本人青年に刺され重傷を負った。日本通のアメリカ人の代表格として日米で広く知られ『日本人』『日本の過去と現在』『米国と日本』など多数の著作がある。再婚した相手、春夫人は公爵・元総理松方正義の孫。 |
『ライシャワーの日本史 (講談社学術文庫) 』
『ライシャワー自伝 』 |
ジョン・W・ホール John Whitney Hall | (1916〜1994) アメリカ人宣教師の息子として東京で生まれた日本学者。京都で育ち、一時帰国しアマースト大学卒後、同志社大学で1941年まで英語講師を務める。太平洋戦争が始まると再び帰国し海軍の情報部に勤め、戦後はハーバード大学のライシャワーの下で東アジア言語を修め博士号を得た。1957年にはミシガン大学日本研究センターの設立に協力し、初代所長となり、その研究拠点として岡山に滞在した。その後もエール大学教授として日本研究の第一人者として数々の功績を上げ名を馳せた。『田沼意次』『日本の近代化』『日本の歴史』など多くの著作を残し日本の紹介に尽くした。 | 『日本の歴史 (講談社現代新書 229) 』 |
金大中 (キム・デジュン) | (1925〜2009) 日本統治下の朝鮮南西部・全羅南道生まれ。1961年に韓国国会議員に初当選。直後の軍事クーデターで政権を握った朴正煕大統領によって議員の座を追われるが、朴の独裁に反対し政治活動を続け、1971年の大統領選では数々の妨害工作に遭いながらも朴に95万票まで迫った。この妨害工作の中では交通事故に見せかけた暗殺未遂に遭い、足に障害を負っている。その後も日米を行き来しながら韓国の民主化運動の中心人物として活躍したが、日本滞在中の1973年、東京のホテルから突然拉致され殺されかかるものの、5日後にソウルの自宅近くで開放されるという事件が起こり、日韓両国に大きな衝撃を与えた(金大中事件)。犯人は韓国中央情報部(KCIA)とされるが真相は日韓両政府の「政治決着」で闇に葬られた。1979年には朴大統領暗殺事件が起こり、全斗煥が大統領に就任、翌年の軍事独裁に対し民衆化を求めた民衆のデモに対し軍が鎮圧し大勢の死傷者を出した光州事件では首謀者として捕らえられ、死刑判決を受けた。日米を中心とした国際社会の助命運動によって釈放されるが1985年までは米国で亡命生活を余儀なくされる。1987年、帰国した彼は大統領選では民主化運動においてライバルだった野党の金泳三と候補一本化に失敗し、軍出身の盧泰愚に敗れた。92年の大統領選ではその金泳三に破れ、政界引退を宣言するに至った。しばらく研究生活を送り、論文などを発表していたが、1995年、突如として新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰を果たし、1998年の大統領選で遂に当選。大統領として5年間務めた。この間、韓国の経済政策を強め、サムソンや現代グループなどを世界的な企業に育てるなど大きな功績を残した。1998年には来日し、小渕首相との会談で「日韓パートナーシップ宣言」をまとめ、新たな日韓関係を築いた。2002年には日韓共催サッカー・ワールドカップを成功させた。また北朝鮮に対しては「太陽政策」を敢行、韓国の大統領として初めて北朝鮮に出向き、金正日総書記と会見、南北共同宣言に署名するなど南北の和解に尽力した。この貢献が国際社会において高く評価され、2000年、韓国人として初めてノーベル賞(平和賞)を受賞した。2009年8月18日85歳で死去。ソウル市の国会議事堂前広場で韓国史上二人目の国葬に処された。何度も死に直面しながらも不屈の精神で韓国の民主化に尽くした。流暢な日本語を話したが、大統領になってからは日韓の公式な会談では韓国語で通訳を通して話した。
| 『金大中自伝―わが人生、わが道 』
権魯甲著 『金大中とともに―波爛万丈の40年 』
趙甲済著 『「首領様の戦士」金大中の正体 (洋泉社ペーパーブックス) 』
中薗英助著 『拉致―ドキュメンタリーノベル「知られざる金大中事件」 (現代教養文庫) 』 |
ジョン・ダワー John W. Dower | (1938〜) アメリカ・ロードアイランド州生まれ。アマースト大学でアメリカ文学を専攻していたが、1958年の夏休みにホームステイのため来日し金沢市に滞在。これを契機に日本文学に関心を移し、ハーバード大学では東アジア研究に転じ日本近代文学を専攻。森鴎外の研究で修士号を取得。その後再び来日して金沢女子短期大学の英語講師を務めた。一時帰国して出版社編集助手などをするがまたハーバードに戻って研究生活に打ち込み、吉田茂の研究によって歴史学・東アジア語学の博士号を取得した。しばしば来日し東大、京大などで研究に従事。ネブラスカ大学講師、ウィスコンシン大学助教授・準教授・教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授で日本史などの教鞭をとり、現在は名門マサチューセッツ工科大学教授を務める。金沢のホームステイ時代に知り合った靖子さんと結婚。著書に日本の家紋から歴史を説いた『紋章の再発見The Elements of Japanese Design』、リベラリストではなく「保守派」としての吉田茂を生い立ちから丹念に描いた『吉田茂とその時代 Empire and Aftermath』、太平洋戦争末期に原爆などで日本の非戦闘員40万人を虐殺した米軍の行為を糾弾しその原因を探った力作『人種偏見―太平洋戦争に見る日米摩擦の底流 War without Mercy(改題:容赦なき戦争――太平洋戦争における人種差別)』などを出版。2000年には日本の終戦直後を描いた『敗北を抱きしめて―第二次大戦後の日本人 Embracing Defeat』でピュリツァー賞、バンクロフト賞などを受賞。これは日本でも大ベストセラーになった。 | |
エズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル Ezra Feivel Vogel | (1930〜) 米オハイオ州出身の日本学者。1958年ハーバード大で社会学の博士号を取った後、指導教官の勧めで日本の家族関係の研究のため妻と来日。千葉県市川市に一軒家を借りて2年間住み、近所の6家族の生活を記録した。帰国後にハーバード大教授になり本格的な日本研究と講義を始める。1975年に再来日して再び長期滞在、主に財界を研究。日本の技術・経済の進歩のスピードに驚き、米国人が脅威を抱き米国にとって日本が再び敵になるのではないかと危惧し、日本の優れた面を米国に教えなければならないと考えて『ジャパン・アズ・ナンバーワン』1979を著した。これは日本では大ベストセラーになり「社会現象」にもなった。その後ハーバード大名誉教授として日本だけでなく中国・アジアの研究者としても世界的権威となるが2000年にハーバード大を引退。現在はボストンに在住し著作に専念している。 | 『ジャパン・アズ・ナンバーワン 』 |
このページの参考書など 「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
佐伯修著『外国人が見た日本の一世紀 (新書y)
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加藤恭子著『私は日本のここが好き!―外国人54人が語る 』
波田野毅著『日本賛辞の至言33撰―世界の偉人たちが贈る 』
「書かれた日本」文献研究会著『世界史が伝える日本人の評判記―その文化と品格 (中経の文庫) 』
前川貞次郎、会田雄次、外山軍治編・著『世界史辞典 新制版 』
毎日新聞社編『一億人の昭和史別冊 昭和史事典』
映画監督・内藤誠著『外国人が見た古き良き日本 (講談社バイリンガル・ブックス) 』
木暮修著『ニッポン通―外国人から見たちょっとヘンなこの国 (知恵の森文庫) 』、『正しいニッポン人―49人のガイコク人と木暮修 』
田中英道著『日本史の中の世界一 』
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