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外国と日本人
海外に渡り活躍した日本人、または支配・進出した日本人。外国の思想・文化・科学を学び日本の発展に寄与した偉人たち、外交に尽くした人などの特集ページです。明治以降〜
古代〜江戸時代はこちら
 
(生年〜没年)解説おススメ資料

岩倉具視
(いわくらともみ)
(1825〜1883)
日本の近代化に貢献した政治家。公家の出身で、幕末には天皇と幕府が協力する公武合体論を唱え、皇女和宮と将軍家茂との結婚に尽くす。尊皇攘夷論が高まる中、佐幕派と見られた岩倉は一時朝廷を去った。しかしやがて薩摩藩の大久保利通と結び倒幕を画策した。明治天皇が即位し大政奉還が行われると1867年、王政復古の大号令を出し明治新政府を樹立。右大臣兼外務大臣となって日本の新しい時代を築いた。1871年、かつて井伊直弼が結んだ不平等条約日米修好通商条約の改正の交渉を目的にアメリカ、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国を巡り、西洋の進んだ文化・技術を視察する使節団を結成。自ら特命全権大使となり参議木戸孝允や大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文らを副使として伴い横浜を出発。約2年に及ぶ旅で日本の立ち遅れを痛感。帰国後は国内政治の強化を図り、征韓論を唱える西郷隆盛らと対立した。その後は自由民権運動を抑え大日本帝国憲法の設立と天皇を中心とした立憲君主制の確立に尽力した。因みに加山雄三の高祖父である。
大久保喬樹著
洋行の時代―岩倉使節団から横光利一まで (中公新書)

永井路子著
岩倉具視―言葉の皮を剥きながら

大久保利謙著
岩倉具視 (中公新書―維新前夜の群像)
岩倉使節団(1871)
(調査中)
泉三郎著
堂々たる日本人―知られざる岩倉使節団 (祥伝社黄金文庫)

久米邦武著
特命全権大使米欧回覧実記 (1) (岩波文庫)

田中彰著
明治維新と西洋文明―岩倉使節団は何を見たか (岩波新書)

イアン・ニッシュ著
欧米から見た岩倉使節団 (MINERVA日本史ライブラリー)
大久保利通
(おおくぼとしみち)
(1830〜1878)
維新三傑の一人。薩摩藩士。同郷の西郷隆盛らと公武合体運動に尽力。薩長同盟を実現した。明治政府樹立をはかり、版籍奉還、廃藩置県を決定、岩倉使節団に加わり欧米視察後、国政の充実を唱えて西郷の征韓論に反対した。後、佐賀の乱、台湾征伐の処理をし政局を安定させた。赤坂紀尾井坂で不平士族に暗殺された。
(調査中)

伊藤博文
(いとうひろぶみ)
(1841〜1909)
長州の貧農の子として生まれ、後長州藩の下級武士の養子となった。幼名は利助。吉田松陰の松下村塾に学ぶ。1858年、吉田松陰が安政の大獄で死刑になると俊輔と名を変え高杉晋作らと尊皇攘夷の志士となり討幕運動に参加。1862年にはイギリス公使館焼き討ちなどに参加。翌年、長州五傑の一人として極秘で(鎖国中のため)渡英、圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じた。明治政府では副使として岩倉使節団に参加、欧米各国を視察。帰国後は初代工部卿など要職を歴任、1881年には欧州に再び渡りドイツのベルリン大学のグナイスト教授やオーストリアで憲法を研究。帰国後にロエスレルらに憲法の草案作りを命じ、1885年には内閣制度をつくり初代総理大臣となり(4度に渡り総理を務める)、同年大日本帝国憲法を発布。明治初期の日本の近代化を指導し、産業の発展などに大きく寄与した。また、鹿鳴館を建て、条約改正を目指して日本が欧米諸国と肩を並べる「近代国家」であることを示そうとした。その後元老として活躍、英語力と卓越した外交手腕も発揮し日清戦争後の下関条約締結、日露戦争後の戦後処理などに当たった。しかし日韓併合後韓国総監として満州を視察中、ハルピン駅で韓国独立運動家安重根に射殺された。芸者遊びなど好色ぶり・絶倫ぶりも有名で何度も醜聞で新聞を賑わした。永六輔が神戸の老妓から聞いた話では「神戸の芸者はみんなといっていいほど親類になった」そうである。そんな人がお札の肖像だったのだ。
童門冬二著
全一冊 小説 伊藤博文―幕末青春児 (集英社文庫)

佐木隆三著
伊藤博文と安重根 (文春文庫)

豊田穣著
初代総理 伊藤博文〈上〉 (講談社文庫)

瀧井一博著
伊藤博文―知の政治家 (中公新書 2051)
木戸孝允
(きどたかよし:桂小五郎)
(1833〜1877)
長州藩士で、剣の達人としても知られた。吉田松陰の松下村塾で学び、井上馨、伊藤博文ら(長州五傑)とともに密かに渡英、最盛期の大英帝国の実態を見聞した。その後は倒幕の中心人物として西郷隆盛大久保利通ら(木戸を加え「維新の三傑」と呼ばれる)と薩長同盟を結んで活躍。明治維新後は新政府に参与。「五箇条のご誓文」の起草、版籍奉還・廃藩置県など大役を果たした。副使として岩倉使節団に参加、海外視察とともに条約改正などの重役に当たった。その後大久保の独裁的政治に反発して対立したが、病に倒れ、最期は大久保の手を握って臨終した。
宮永孝著
白い崖の国をたずねて―岩倉使節団の旅 木戸孝允のみたイギリス

古川薫著
桂小五郎―奔れ!憂い顔の剣士 (時代を動かした人々 維新篇)

村松剛著
醒めた炎―木戸孝允(中公文庫)

松尾正人著
木戸孝允 (幕末維新の個性)
井上馨
(いのうえかおる)
(1835〜1915)
長州萩藩の藩士の子として生まれる。若くして秀才の誉れ高く、藩侯毛利慶親より聞多(もんた)の名を賜る。地元の名門藩校明倫館出身でさらに江戸に出て蘭学や江川太郎左衛門の下で砲術などを学んだ。後に伊藤博文桂小五郎高杉晋作らと攘夷運動に参加、イギリス公使館の焼き討ちなど過激な行動をとる。後伊藤らとともにイギリスに密航(長州五傑)。帰国後は開国論者に転向、討幕運動で活躍した。グラバーからの武器調達などに手腕を発揮し、戊辰戦争の勝利に大きく貢献した。維新後は第一次伊藤内閣の外相(後大蔵大臣など歴任)となり、1876年、特命副全権大使として日朝修好条規の締結などの業績を上げた。しかし不平等条約改正交渉のため鹿鳴館の設立などを指揮し極端な欧化主義をとり、これが世間から非難され、辞任した。一方、財界にも強い力を持ち、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に務め、三井財閥の顧問となって指揮し西郷らから「三井の大番頭」などと呼ばれた。政界引退後も元老として重きをなした。


林房雄著
青年―若き日の伊藤博文・井上馨 (徳間文庫)
山県有朋
(やまがたありとも:山縣有朋)
(1838〜1922)
長州藩の下士の家に生まれ、松下村塾で学ぶ。尊皇攘夷、討幕運動に参加、高杉晋作らと騎兵隊を組織、軍監として活躍した。維新後の1869年渡欧し、主に各国の軍備を視察、帰国後は兵部権大丞として軍制改革をし、近代的軍隊の創設に尽力、徴兵制や軍人勅諭などを制定。とりわけ陸軍の整備を強化した。1877年の西南戦争では官軍の総指揮を執り西郷隆盛率いる薩摩軍を制圧した。因みに西郷は彼にとっては恩人でもあり、苦渋の戦いであった。その後は内務卿、総理大臣を歴任、「超然主義」をとり軍備拡張を進める。元老として政治を指揮、日清・日露戦争も自ら指揮した。いわゆる長州閥の代表で、第一線を退いた後も政治・軍に絶大な力を誇った。晩年の1921年、皇太子(後の昭和天皇)の后候補(後の香淳皇后)に色盲の遺伝があると反対して物議をかもし(宮中某重大事件)、非難され失意のうちに世を去った。東京・目白の椿山荘は彼の屋敷跡である。
半藤一利著
山県有朋 (PHP文庫)

岡義武著
山県有朋―明治日本の象徴 (岩波新書 青版 311)

松本清張著
象徴の設計 (文春文庫)

伊藤之雄著
山県有朋―愚直な権力者の生涯 (文春新書)
陸軍と官僚を支配下において山県閥をつくり、デモクラシーに反対し、みんなに憎まれて世を去った元老・山県有朋は、日本の近代史にとって本当に害悪だったのか?不人気なのに権力を保ち続けた、その秘訣とは?首相、元帥、元老にして「一介の武弁」。
大山巌
(おおやまいわお)
(1842〜1916)
薩摩の下級武士の子として生まれた。西郷隆盛従道とはいとこにあたる。幕臣江川太郎左衛門の塾にて砲術を学び、戊辰戦争では砲隊長として戦果を上げる。明治維新後の1869年、フランスやスイスに留学して普仏戦争などを視察。帰国後は陸軍に入り、近代陸軍の建設に努力しながら西南戦争、日清・日露戦争を指揮し、大きな戦果を残し、同じ薩摩藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。後に陸軍大臣、参謀総長、内務大臣なども歴任。晩年も元老として明治時代の日本を指揮した。妻は岩倉使節団の一人で日本初の女子留学生・山川捨松。
児島襄著
大山巌 (1) (文春文庫)

三戸岡道夫著
大山巌―剛腹にして果断の将軍 (PHP文庫)
赤松則良
(あかまつのりよし)
(1841〜1920)
通称大三郎。江戸で幕臣の子として生まれる。13歳のとき、江川坦庵(太郎左衛門)の下で砲術と兵学を学び、後にオランダ語を学び、蕃書調所に勤める。後、長崎海軍伝習所の学生に選ばれカッテンディーケらに航海術などを学んだ。1860年勝海舟らと咸臨丸に乗船し、アメリカに渡り(万延遣米使節団)、そのまま榎本武揚らとオランダに留学し兵学・造船術などを学んだ。1868年開陽丸で帰国するが、すでに江戸幕府は崩壊、大政奉還によって静岡・磐田藩主となった徳川家の下で働いた。しかし維新後は新政府に招かれ海軍兵学校大教授(後に海軍中将)となり海軍の創設に参加し、建艦に腕を振るった。「日本造船の父」と呼ばれる。
赤松則良半生談―幕末オランダ留学の記録 (東洋文庫 317)
青木周蔵
(あおきしゅうぞう)
(1844〜1914)
長州藩の医者の家に生まれ、明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て、1868年藩留学生としてドイツに留学し医学を学ぶ。しかし留学中に政治・経済学に転じた。帰国後に外務省に入省、外交官としてイギリス、ドイツ、アメリカ、オーストリア、オランダなどの公使を歴任、後に外務大臣に就任。大津事件の処理や、不平等条約の改正に尽力し、1894年には日英通商条約の調印に成功するなど成果を挙げた。ドイツへの傾倒ぶりは有名でドイツ式の政治体制、ビールや農場など文化・経済の輸入を推進し、世間からは「独逸翁」と呼ばれた。自伝は大津事件の他、条約改正、北清事変、三国干渉など自ら関わった問題について詳しく触れている。那須に残る別荘はドイツ式の建築で国の重要文化財。

参考書は→ハーフマニア
国際結婚した有名人のコーナー。
青木周蔵自伝 (東洋文庫 (168))

水沢周著
青木周蔵―日本をプロシャにしたかった男 (上巻) (中公文庫)

坂根義久著
明治外交と青木周蔵
桂太郎
(かつらたろう)
(1847〜1913)
長州の生まれ。兵学を学ぶためドイツに留学。帰国後は山県有朋のもとで軍制の改革を行った。陸軍次官、台湾総督を歴任。1898年には陸軍大臣、1991年には総理となる。その後桂は西園寺公望と交互に組閣(俗に言う桂園時代)、第3次内閣までの総理としての在任期間は歴代1位である。総理の間、日露戦争の指揮、日韓併合なども行い、軍部の力を強めた。また、大逆事件などで社会主義者らを激しく弾圧した。1900年には拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立。にこにこして肩をポンと叩き政治家や軍人・実業家らを手懐けるのに巧みだったので「ニコポン首相」と呼ばれた。
桂太郎自伝 (東洋文庫)

古川薫著
山河ありき―明治の武人宰相・桂太郎の人生 (文春文庫)

小林道彦著
桂太郎―予が生命は政治である (ミネルヴァ日本評伝選)
高杉晋作
(たかすぎしんさく)
(1839〜1867)
長州藩士として生まれる。藩校の明倫館に入学、剣術の達人としても知られた。後、吉田松陰率いる松下村塾に学び、その優秀さは久坂玄瑞とともに塾の双璧とされた。さらに1858年には藩命で江戸・昌平坂学問所などで学んだ。佐久間象山や横井小楠とも交友し大きな影響を受けた。1862年、藩命で五代友厚らとともに、幕府使節随行員として清国・上海へ渡航、欧米の植民地化が進む状況や太平天国の乱を見聞して帰国した。尊王攘夷、倒幕を目指して奇兵隊を組織し英国公使館、外国艦隊を襲撃するなど過激な行動で知られた。1864年、四国艦隊による下関砲撃事件が起こり、高杉が全権を担って和議の交渉に当たり成果を上げた。八月十八日の政変・禁門の変で長州藩が朝敵とされ、長州征伐が行われると高杉は藩内でクーデターを起こし伊藤博文らと協力して佐幕派を一掃、藩論を倒幕に統一し幕府に対抗した。1866年、桂小五郎らと共に坂本龍馬を仲介として薩長同盟を締結。その後第二次長州征伐では自ら指揮をとって幕府軍と戦い、勝利に導いた。藩政の主軸として倒幕運動を進めたが、実現を見ぬまま肺結核で死去した。享年27。都都逸の名文句「三千世界のカラスを殺し、主と朝寝がしてみたい」は高杉の作と伝えられている。
池宮彰一郎著
高杉晋作〈上〉 (講談社文庫)

山岡荘八著
高杉晋作〈1〉 (山岡荘八歴史文庫)

三好徹著
高杉晋作 (人物文庫)

福澤諭吉(ふくざわゆきち:福沢諭吉)
(1835〜1901)
豊前国中津藩の下級武士出身。長崎で蘭学を学び、後大坂の緒方洪庵に学ぶ。1858年藩命で江戸の藩邸内に塾を開く(後の慶応義塾)。勝海舟らと万延遣米使節団に同行し渡米。その後1867年にも渡米、通算3回に渡る欧米への視察を経て近代思想の洗礼を受け、維新後の文明開化期に啓蒙思想家として主に慶応義塾で後進の教育と、中村正直らと「明六社」を設立、新聞や出版物による論説などを行い活躍した。1868年に優れた外国文化を紹介した『西洋事情』を出版、以後「天は人の上に人を作らず」という一節で有名な自由・平等の精神を説き実学を勧めた『学問のすすめ 』、『文明論之概略』などは海賊版が出るほどの大ベストセラーとなった。「一身独立して一国独立する」の独立自尊の精神、「脱亜入欧」の思想は明治期の人々に計り知れない影響を与えた。現在の1万円札の肖像である。
自伝『福翁自伝』は日本人の自伝としては新井白石『折たく柴の記』と並ぶ名著。

丸山真男著
福沢諭吉の哲学

平山洋著
福沢諭吉の真実 (文春新書)

藤原銀次郎著
福澤諭吉 人生の言葉

清水義範著
福沢諭吉は謎だらけ。心訓小説
中村正直
(なかむらまさなお)
(1832〜1891)
別名・敬宇。『明治六大教育家』のひとり。江戸の幕臣の子として生まれる。幼い頃から神童と呼ばれる秀才で、10歳から昌平坂学問所で儒学・蘭学・英語を学び、後同校の教授となる。幕府のイギリス留学生(外山正一、菊池大麓、林董ら)の監督として渡英、ベーコン、ニュートンの研究に従事した。明治維新を聞き急遽帰国、帰国後も徳川家に仕え静岡学問所の教授となった。その間の1870年、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を翻訳し『西国立志篇』の邦題で出版、「天は自ら助くる者を助く」という独立自主の精神を思想的根幹としたこの書は大ベストセラーとなり、福沢諭吉の『学問のすすめ』とともに明治期の日本人の精神発揚に大きな影響を与えた。その後上京し1873年、東京小石川に私塾同人社を開設、多くの優秀な人材を育てた。1874年には福沢、森有礼西周、加藤弘之らとともに明六社を設立し啓蒙思想の普及に努めた(明六社は現在の「学士院」の前身にあたる)。また、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)校長などを務め女子教育・幼児教育・盲唖教育にも尽力した。その後東大教授、貴族院議員などを歴任。他の著書に『自由之理』(J・S・ミル著の翻訳・1872年)、自伝『自叙千字文』などがある。
西国立志編

高橋昌郎著
中村敬宇 (人物叢書)
中江兆民
(なかえちょうみん)
(1847〜1901)
土佐藩出身。藩校の文武館で学んだ後、長崎や江戸で蘭学やフランス語を習得した。1867年にはフランス公使ロッシュの通訳となり、兵庫・大阪で活躍した。明治維新後、岩倉使節団に加わり司法省出仕としてフランスに留学、帰国後は東京外語校長、後仏学塾を開く。西園寺公望の「東洋自由新聞」、板垣退助の「自由新聞」などに協力しジャーナリストとして筆を揮った。特にフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』を翻訳して日本へ紹介し、自由民権運動の理論的指導者で「東洋のルソー」と評された。その後自由党員として第一回衆議院議員に当選、国政に関わるが自由党土佐派の裏切りによって辞職。北海道小樽に渡り実業界に入り山林業や鉄道事業に関わった。
三酔人経綸問答 (岩波文庫)

なだいなだ著
TN君の伝記 (福音館文庫)

松永昌三著
中江兆民評伝

一番弟子の幸徳秋水著
兆民先生・兆民先生行状記 (岩波文庫 青 125-4)
福地源一郎
(ふくちげんいちろう)
(1841〜1906)
長崎の医師の子として生まれる。号は桜痴。蘭学を修めた後、江戸で幕府に仕え外国奉行支配通弁御用雇として主に翻訳の仕事をした。1861年、1865年と続けて渡欧、幕府の使節としてパリ、ロンドン、マルセイユなど広く見聞した。維新後は1868年「江湖新聞」を発行、新政府批判で逮捕されるが、木戸孝允の尽力で放免された。その後は大蔵省に入省、1871年には岩倉使節団の一等書記官として欧米を訪問し主に文学・演劇を研究した。帰国後は東京日日新聞社(『毎日新聞』の前身)に入り主筆・社長として健筆を揮い、初めて社説を採用するなど明治期のジャーナリズムに大きく貢献した。同社退社後は東京・木挽町に市川団十郎・河竹黙阿弥らとともに歌舞伎座を開設、演劇改良運動に従事、また劇作家として『大森彦七』『侠客春雨傘』『鏡獅子』『春日局』などを著した。代表作に『幕府衰亡論』、自伝『懐往事談』があり、この自伝には幕末の渡欧時の詳細があるが「羽織袴、大小(刀)、草履にて陣笠を冠り」パリ・ロンドン市中を闊歩した話などがあり、海外でも「日本流」をあくまで貫き通した硬骨の士であった。
幕末政治家 (東洋文庫)
津田真道
(つだまみち)
(1829〜1903)
美作国津山藩の料理番の家に生まれるが、幼少時から学問を好み、家業を嫌って1850年、江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学び、幕府の蕃書調所教官として翻訳の仕事に就く。1862年、幕命により榎本武揚西周らとオランダのライデン大学に留学して法学を学んだ。その講義録をまとめて著した日本初の西洋法律書『泰西国法論』が高く評価された。政治学・経済学・統計学を体系的に導入し、幕府を中心にした国家構成を構想し、。維新後は司法省に出仕、後に外務権大丞となり日清修好条規提携のため中国に赴く。啓蒙運動に関わり、福沢諭吉らと明六社を設立。裁判官、元老院議官としても活躍。1890年には、第一回衆議院議員となり、初代衆議院副議長に就任、後に貴族院議員となった。統計、国法の権威として知られる。
津田真道全集 (上)

大久保利謙編
津田真道―研究と伝記
益田孝
(ますだたかし)
(1848〜1938)
佐渡奉行支配下の地役人の子として佐渡島・相川に生まれる。父が箱館奉行を務めた後江戸勤めになるのについて江戸に出て、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館で支配通弁御用出役として出仕。ハリスらと接し生きた英語を学んだ。ヘボン塾に学んだ後、1863年、弱冠16歳で幕府遣欧使節の一員としてフランスに派遣された父に随行した。維新後はウォルシュ・ホール商会のクラークに迎えられ商社として働くが後、井上馨と知り合い、彼の薦めで大蔵省に入省、金貨鋳造に取り組んだ。その後辞職し、世界初の総合商社三井物産会社を設立、さらに三池炭鉱社(三井鉱山の前身)の設立にも大きく寄与し、三井財閥の大番頭として岩崎家の三菱とともに明治期の日本経済をリードした。また、中外物価新報(後の日本経済新聞)を創刊、経済情報を世間に広めた。晩年は神奈川県小田原に広大な土地を購入し、掃雲台と名づけた別荘で暮らした。「鈍翁」の号で茶人としても知られ、仏画・仏像・工芸品・茶器などの莫大かつ重要なコレクションを残した。また日本人の食生活にも大きな関心を寄せたことでもよく知られている。
自叙 益田孝翁伝 (中公文庫)

松永秀夫著
益田孝 天人録―横浜で実学を修め三井物産の誕生へ

白崎秀雄著『鈍翁・益田孝〈上巻〉 (中公文庫)』松永 秀夫
馬場辰猪
(ばばたつい)
(1850〜1888)
土佐藩士の家に生まれる。1862年福沢塾(後の慶應義塾)で学び、長崎の英語伝習所(済美館)でフルベッキに英語を習う。二度に渡ってイギリスに留学、法学・海軍制などを学ぶ。帰国後は「自由新聞」の主筆として著述活動と、共存同衆、国友会、交詢社、自由党などを結成・所属し啓蒙運動などで活躍、自由民権思想の普及に努めた。1886年日本紹介を目的とした講演のためアメリカに渡るがフィラデルフィアで客死した。作家・翻訳家馬場孤蝶の兄。
萩原延壽著
馬場辰猪 (中公文庫)

永国淳哉著
遠い波涛―土佐自由民権家馬場辰猪アメリカに死す

西周
(にしあまね)
(1829〜1897)
思想家。石見国津和野の藩医の子として生まれる。幼い頃から藩校養老館で蘭学を学んだ後1863年にオランダに留学し政治学・法学などを学んだ。帰国後は徳川慶喜の政治顧問をつとめ、明治政府樹立後は兵部省や文部省の官僚となって軍制の整備などに当たった。1873年、森有礼福澤諭吉らと「明六社」創立に参加。西洋の近代的な学問の普及に努めた。また、獨逸学協会学校(後の独協大)の初代校長を務めるなど明治時代の青少年の教育・啓蒙に生涯を捧げた。「哲学」「技術」「芸術」「科学」「現象」などの新しい日本語を案出したことでもよく知られる。森鴎外の親戚であり、若き鴎外にドイツ語を教えた人物である。
僕は子供の頃切手を収集していたが文化人切手のシリーズの中で「西周」だけ異常に高価だったのを覚えている。何故なのだろうか?
島根県立大学西周研究会編
西周と日本の近代
渋沢栄一
(しぶさわえいいち)
(1829〜1897)
「日本資本主義の父」と呼ばれる。武蔵国(現・埼玉深谷市)の大農家に生まれる。7歳で儒学を学び、12歳から千葉道場で剣術を習うが、倒幕派の勤皇志士たちと交友を結び、一時尊皇攘夷運動に加わり、横浜異人街焼討ちなど過激な計画を立てたが未遂に終わる。しかし後、一橋慶喜に仕えることになり、慶喜が将軍に推挙されるのに伴い幕臣(陸軍奉行支配調役)となる。パリ万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、渡仏。パリの他、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど各国を訪問・視察した。大政奉還の報によって帰国。帰国後は仕官を辞め株式会社形式の「商法会所」を興すが間もなく新政府に呼ばれ大隈重信などの推薦で大蔵省に入省。ブスケブリューナらと国立富岡製糸工場の設立など殖産興業と財界の整理に従事した。大久保利通と対立し、井上馨とともに大蔵省を退官。その後は民間の実業家として第一国立銀行、日本銀行を創立。王子製紙、東京鉄道、東京瓦斯、大阪紡績、日本郵船、東京海上火災保険、東京証券取引所、キリンビール、帝国ホテルなど多業種に渡って500以上の会社を創設した。実業界を引退後は東京慈恵会、日本赤十字社など医療・福祉期間の創立、理化学研究所、森有礼と商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)、日本女子大など多くの教育機関への設立支援、関東大震災の被災に対しての寄付金集めなど600余りの社会事業に貢献した。また、国際親善・海外支援活動も盛んに行い、悪化した日米関係改善のため晩年に4度も渡米。ルーズベルト大統領、ウィルソン大統領、エジソンなどとも会見した。1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。91歳で大往生。「四十、五十は鼻垂れ小僧」とは彼の言葉であるがさすが。それにしても若い頃攘夷・倒幕派の志士だった渋沢が慶喜に仕え、洋行して国際親善に尽くしノーベル賞候補になるとは何とも波乱な人生である。東京・北区飛鳥山公園近くには記念館がある。
論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

城山三郎著
雄気堂々(新潮文庫)

見城悌治著
渋沢栄一―「道徳」と経済のあいだ (評伝・日本の経済思想)

津本陽著
小説渋沢栄一 上(幻冬舎文庫)

津田梅子
(つだうめこ)
(1864〜1929)
農学者津田仙の子として東京に生まれる。津田仙は幕末まで外国奉行の通弁をしており、外国にも何度か渡り、海外事情に詳しい人物であった。明治以降仙は北海道開拓使の嘱託となり上司であった黒田清隆が推し進めた女子教育政策に同感した。その父の勧めで梅子は日本初の留学生として山川捨松、永井繁子、上田貞子、吉益亮子ら4人の少女とともに、1871年岩倉使節団に随行して太平洋汽船のアメリカ号で渡米。まだ6歳の梅子は最年少だった。23日後にサンフランシスコに到着した梅子らは祝砲に迎えられ地元市民の大歓迎を受ける。その後梅子は吉益と共に日本公使館の書記だったチャールズ・ランメン家(ワシントン郊外)にホームステイし、本格的な教育を受けた。2,3ヵ月後には英会話をマスターし、地元の小学校に通い、ピアノなども習い始めた。すでに数ヶ月で上田、吉益は帰国したが、梅子はその秀才ぶりが認められてそのまま留学を続け、また、自らの意思でキリスト教の洗礼を受け、この頃には日本へ宛てる手紙も英文で書くようになる。1878年、13歳で小学校を卒業した梅子は、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語や自然科学、心理学、芸術などを学ぶ。夏休みにはランメン夫妻に連れられて各地を旅行した。16歳の時に帰国の命令が出たが、山川捨松とともに延長を願い出、1882年7月に女学校を卒業。11月に日本へ帰国した。実に12年間(今でいえば小1から高卒まで)の留学で、帰国した時はすっかり日本語を忘れていたという。帰国後は華族女学校(現・学習院女子部)の英語教師として迎えられた。しかし日本の女子教育には満足がいかず、周囲からの縁談もすべて断り、学問の習得と後進の教育に務めた。留学時代の友人アリス・ベーコンの勧めもあって1889年7月に再び渡米。プリンマー大学で生物学を学ぶが途中で師範学校に転学、日本で本格的な女子教育の場を作る決心を固める。1892年8月に帰国。再び女子華族院に勤め、1900年、父の仙やアリス・ベーコン、大山捨松、永井(瓜生)繁子らの助けを得て、7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立した。場所は東京・麹町で、当初はわずか10人の生徒を6畳間2室で教えた。梅子は1929年、64歳で死去するが生涯を独身で通し、女子教育に捧げた。彼女の教えは、単なる英語教育や女性の礼儀や作法の取得のみならず日本の女性の地位向上を目的とし多くの日本女性に大きな影響を与えた。日本人として初めて洋装をした女性であり、「ブラジャーを最初につけた人」としてもよく知られている。また、津田塾大学内にひっそりと墓があるが、女子学生の間には「津田梅子の墓参りをすると結婚できなくなる」という伝説も有名。
高橋裕子著
津田梅子の社会史

大庭みな子著
津田梅子

吉川利一著
津田梅子 (中公文庫)

亀田帛子著
津田梅子―ひとりの名教師の軌跡

アリス・ベーコン著
明治日本の女たち (大人の本棚)

藤原智子監督
『夢は時をこえて−津田梅子が紡いだ絆』

寺沢龍著
明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女 (平凡社新書)
森有礼
(もりありのり)
(1847〜1889)
薩摩藩士の子として生まれ、藩校造士館、藩洋学校開成所に学ぶ。1865年、藩命により五代友厚らとともに渡英。その後ロシアに渡るなどヨーロッパ各地やアメリカも視察した。帰国後は福沢らと明六社を設立し啓蒙運動に勤しんだ。また、1875年東京銀座に私塾商法講習所(一橋大学の前身)を開設し後進の指導に当たった。外交官としてアメリカ、清、イギリスに駐在。1885年初代文部大臣となって文教改革を推進。学校制度、国家主義的教育制度を確立したが国粋主義者の反感を買い、憲法発布当日に暗殺された。不正確な日本語を廃止して英語に変えるという極端な「国語廃止論」を主張して、国内はもとよりアメリカ人の言語学者ホイットニーや文部省顧問などからも大反対を受けた話は有名。
森本貞子著
秋霖譜―森有礼とその妻

林竹二著
森有礼 悲劇への序章 (林竹二著作集)

新島襄
(にいじまじょう)
(1843〜1890)
上野国安中藩の藩士の子として生まれる。蘭学・航海術を学んだが聖書を読んで感激し、1864年21歳の時にアメリカ密航を企てる。函館からアメリカの船に乗り込み、ボストンに到着。船主だった実業家夫婦の援助を得て名門フィリップス・アカデミー(ブッシュ大統領父子などを輩出している)に進学。神学校で洗礼を受け、アマースト大学に進学。日本人としてアメリカの大学から初めて学士の学位取得をした。なお、この大学で新島はクラーク博士に師事しており、これが縁で博士を札幌に招くことになった。1872年、アメリカ訪問中の岩倉使節団と出会い、新島の語学力に目をつけた木戸孝允にスカウトされ、通訳として使節団に参加する。1874年に帰国、キリスト教精神に基づく自由・自治主義の教育のため京都に同志社英学校(後の同志社大)を開校し初代社長に就任、多くの有能な若者を育てたが、志半ばで病に倒れ、46歳の若さで死去した。
新島襄―わが人生 (人間の記録)

太田雄三著
新島襄―良心之全身ニ充満シタル丈夫 (ミネルヴァ日本評伝選)
長与専斎
(ながよせんさい)
(1838〜1902)
肥前国大村藩の藩医に生まれる。大坂で適塾の緒方洪庵に師事、福澤諭吉の後を受けて塾頭となる。後長崎の医学伝習所でポンペに西洋医学を学ぶ。維新後に岩倉使節団の一員となり、ドイツやオランダの近代医学・衛生学・医学行政などを視察・研究、帰国後は内務省衛生局初代局長として日本の医事・衛生制度の確立に尽力した。局長時代に北里柴三郎、後藤新平らを育てた。なお、「衛生」は長与の発案による言葉である。白樺派の作家長与善郎は息子。
松本順自伝・長与専斎自伝 (東洋文庫 386)

外山幹夫著
医療福祉の祖 長与専斎

森鴎外
(もりおうがい)
(1862〜1922)
石見国(島根県)津和野の藩医の長男として生まれる。本名は林太郎。幼少時から親戚でもあった西周らから英才教育を受け、論語やドイツ語などを習得したと言われる。1872年父に伴い上京。1874年東京医学校予科に(歳をごまかして)満11歳で入学。1877年には東京医学校は東京大学医学部となり、森は本科生となって1881年に20歳の最年少で卒業(これは現在まで破られていない記録)。卒業後は陸軍軍医として採用され以後1916年陸軍省医務局長を辞するまで35年に渡って軍医として活躍した(最高位の陸軍軍医総監まで登りつめた)。その間4年間ドイツに留学。コッホらに師事するなど研究に従事、いくつかの優れた論文を残すほか、赤十字万国大会での日本代表としての演説が各国から絶賛されたり、お雇い外国人でもあったナウマン博士が日本について語った講演について反論し論争を巻き起こすなど様々な成果を挙げている。帰国後は落合直文らと翻訳詩集『於母影』を発表。次いでドイツ時代の恋愛体験を綴った『舞姫』を発表、文学者としての本格的な活動を始めた。以後和歌、随筆、戯曲の翻訳、評論、『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』などの歴史小説など多岐に渡る文芸活動で、近代日本の文学界に大きな影響と足跡を残した。日中の古典はもとより、西洋文学にも通じ、韻文・散文に共に長けた、日本で「文豪」と呼べる数少ない人物のうちのひとりである。
東京医学校は現在の東大医学部に当たる。当時も日本中の最優秀な学生が集まっていたが、その中でも2歳近く若い鴎外は当然「一体どれだけ秀才なのか?」と皆の注目を浴びていた。医学校なのでドイツ語での授業が当然多くなる。学生たちは皆すでに予備校などでドイツ語を習得していたので苦も無かったが、鴎外のノートを覗き見た同級生は彼が「縦書き」で教授の話を記録しているのを知り、「やはりあれだけ若いのだからドイツ語までは習ってないのだろう、仮名で書き取っている」と思い、親切心で鴎外に自分のノートを見せてやった。しかし、その彼は鴎外のノートを見て愕然とする。鴎外のノートは全部「漢字」で埋め尽くされていた。何と鴎外はドイツ語をすべて中国語(つまり漢文)に翻訳して記録していたのだ。つまり彼はドイツ語と漢文を同時に勉強していたわけで、それ以来、同級生たちは鴎外に一目置くようになったという。


長島要一著『森鴎外―文化の翻訳者 (岩波新書)

鴎外が小倉に「左遷」された時に書いたとされる日記をめぐる物語。坂口安吾らが絶賛し、松本清張が芥川賞を受賞し文壇で活躍する契機となった作品。

夏目漱石
(なつめそうせき)
(1867〜1916)
江戸・牛込馬場下横町の名主・夏目小兵衛の子として生まれる。本名は金之助。いわゆる「恥かきっ子」として生まれたため、すぐに里子に出され、3歳の時には養子にだされるが義父母の不和などで10歳の時に生家に戻されるという複雑な家庭状況に育つ。東京府第一中学正則科を経て二松学舎で漢学を、成立学舎で英語を学んだ。1884年、18歳で東京大学予備門に入学。1890年に帝国大学(東大)英文科に入学。同級生だった俳人・正岡子規と出会い、このとき俳号として「漱石」の名を使った。J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをしこれが絶賛されるなど大学では特待生に選ばれ1893年主席で卒業した。その後高等師範学校の英語教師を務めるが神経衰弱となり、翌年愛媛県の松山中学の英語教師に赴任、翌年にはさらに熊本の第五高等学校の英語教授となった。1900年5月、文部省より英語研究のため英国留学を命ぜられる。1900年9月から1903年1月までロンドンに滞在しロンドン大の聴講生となり研究に勤しんだ。しかし人種差別を受けたという被害妄想などに悩まされ、学校も辞め自宅で読書と著述に過ごし、やがて胃と精神を病み、急遽帰国することになった(ロンドン滞在中にビクトリア女王の崩御に遇っている)。
帰国後は第一高等学校、帝国大学文科大学講師などを務め、1907年、朝日新聞社に入社するまで約十年に渡って英語・英文学講師として教員生活を送った。この間、1904年高浜虚子の勧めで俳句雑誌『ホトトギス』に書いた小説『吾輩は猫である』が評判を呼び、続く『倫敦塔』『坊つちやん』も話題となって人気作家としても活躍を開始している。以後は『三四郎』『それから』『門』の三部作、晩年には「則天去私」を理想とし『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを残すなど、英米文学に影響を受けながらも日本独自の人間像を描く作風で日本の近代文学を切り開き、また、芥川龍之介、内田百閧迹スくの弟子も育て、後の日本文学に計り知れない影響を与えた。鴎外と並ぶ功労者である。

ロンドン留学は33歳の時。当時大臣の年棒並みの留学費を得たが、世界一物価の高いロンドンで書籍購入などの研究費だけでなく渡航費から下宿代・食費などのすべての生活費を賄わなければならず、いつも金欠に悩まされた。クッキーひとつで一日過ごすこともあったらしく、この時の生活が胃をこわすきっかけとなった。しかし当時英国の知識層の間で話題となった難読な哲学書を読み解き、それについての矛盾点や疑問点を喝破したメモが残されていて、漱石の英語力と頭脳の明晰さはぴか一であったことが分かっている。また、熊本の第五高等中学校に赴任した時は前任者・小泉八雲と変わらぬ発音で英語を教授し学生たちを感嘆させたという。




漱石研究の第一人者だった江藤淳の『夏目漱石―決定版 (新潮文庫)

漱石の小説の映像化は難しい。そこが真の「文学」の証拠なのだが…『それから [DVD]

半藤一利著『漱石・明治・日本の青春』 』
黒田清隆
(くろだきよたか)
(1840〜1900)
(調査中)
(調査中)

東郷平八郎
(とうごうへいはちろう)
(1847〜1934)
薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に参加、維新後は西郷隆盛の後押しでイギリスに留学、主に航海術、兵学を学ぶ。日清戦争では「浪速」艦長として活躍。日露戦争では、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシアのバルチック艦隊を破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴーとしてその名を轟かせた。この開戦時の「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の一声は有名。後に国民的英雄となり、東宮学問所総裁、元帥となる。死後は国葬され、東京・渋谷に東郷神社が建立された。米タイム誌の表紙を飾った最初の日本人である。
吉村昭著
海の史劇

司馬遼太郎著
坂の上の雲

乃木希典
(のぎまれすけ)
(1849〜1912)
長州藩(支藩・長府藩の藩士の子)出身。江戸の長府藩邸(現在六本木ヒルズ)に生まれる。吉田松陰を慕い16才のとき玉木文之進の門に入り文学、哲学を志し、後に藩校の名門明倫館に学んだ。しかし、父希次の進言により武官の道を歩む。1865年の長州征討では報国隊に参加し幕府軍と戦った。維新後は秋月の乱、西南戦争に出征。西南戦争では敵・薩摩軍に軍旗を奪われるという不名誉を得、これが一生の傷となる。。1886年から1888年まで川上操六とともにドイツに留学、軍制を学んだ。帰国後日清戦争には大山巌大将の下、陸軍少将として出征、当時東洋一の要塞と呼ばれた旅順を一日で攻略し一気に名を上げた。1896年に台湾総督に就任。1904年、日露戦争では、さらに強力な要塞となっていた旅順をおよそ150日に及ぶ激戦の末に陥落させた。水師営で停戦条約に調印し、乃木とステッセル将軍が会見。この時の乃木の敵に対する紳士的な態度は武士道の鑑とされ、一躍世界でも知られる存在となった(この日露戦争で乃木自身二人の息子を失っている)。日露戦争で多くの兵士を犠牲にした責をとり自決しようとしたが明治天皇に止められ、学習院院長として後進の指導に当たるよう任命された。若き日の昭和天皇も学習院で大いに薫陶を受け、後世になって最も尊敬する人物だったと述べている。陸軍大将となり、明治日本において東郷平八郎と並ぶ英雄となったが、「日露戦争旅順攻落の失敗の責をとる」という名目で明治天皇の大葬の際に夫人とともに殉じた。この事件は日本に大きな衝撃を与え夏目漱石は小説『こころ』で、森鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』でこの事件を描いている。死後、乃木は「軍神」となり東京・赤坂にあった自宅跡には乃木神社が建てられた(ここには夫妻が自決した部屋が残されている)。近くの坂は乃木坂と名づけられている。因みにユニオシはこの近くで生まれたため、乃木神社が幼い頃の遊び場であった。
福田和也著
乃木希典 (文春文庫)

岡田幹彦著
乃木希典―高貴なる明治

渡辺淳一著
静寂の声―乃木希典夫妻の生涯

スタンレー・ウォシュバン著
乃木大将と日本人 (講談社学術文庫)

司馬遼太郎著
殉死 (文春文庫)

芥川龍之介著
薮の中・将軍 (角川文庫)

古川薫著
斜陽に立つ

井上ひさし著
しみじみ日本・乃木大将
小村寿太郎
(こむらじゅたろう)
(1855〜1911)
宮崎飫肥藩の下級武士の出身。幼少からの秀才でわずか7才で藩校・振徳堂に入学。長崎のフルベッキに英語を学び、大学南校に入学。その後第1回文部省海外留学生に選ばれハーバード大学へ留学。法律を学び帰国後は司法省に入省し判事となる。しかし後、外務省の外交官に転じ、外務次官、駐米・駐露公使などを歴任、対外的に強硬路線を貫いた。1901年桂太郎内閣の外務大臣に就任。日英同盟、日露戦争における外交を担当。ポーツマス条約の全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し日露講和条約を締結した。また、朝鮮、満州の植民地支配や軍備拡張を推進した。若い頃は父の借金の肩代わりで貧乏暮らし。身長150センチくらいの小男で、巨漢のウィッテとの交渉にあたった。病弱だが酒豪だったといわれる。
吉村昭著
ポーツマスの旗 (新潮文庫)

岡崎久彦著
小村寿太郎とその時代 (PHP文庫)
高峰譲吉
(たかみねじょうきち)
(1854〜1922)
応用科学者。富山県高岡市生まれ。工部学校(後の東大)を主席で卒業後、イギリス・グラスゴー大学に留学。帰国後は農商務省に入って和紙、藍、清酒などの研究をする。1889年には日本初の人造肥料である過燐酸石灰を製造した。1890年渡米。1894年にはデンプンを分解する酵素、アミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し消化薬「タカジアスターゼ」を発明。その後はホルモンの研究を始め、1900年にはアドレナリンの結晶抽出に成功。これは世界で初めてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。1913年に帰国し三共薬品や理化学研究所の設立に寄与した。

参考書は→ハーフマニア
国際結婚した有名人のコーナー。
永井荷風
(ながいかふう)
(1879〜1959)
本名は永井壯吉。号は断腸亭主人。士族出身で内務省の高級官僚だった父の下で東京に生まれる。小説家を目指し広津柳浪に入門。また落語家(朝寝坊夢之助という名で前座だった)や歌舞伎劇作者福地桜痴の門下となるなど日本の芸能に深い興味を持ち自由奔放な生活を送り、進学した高等商業学校付属外語学校清語科(現・東京外国語大中国語科)を除籍となる。この頃ゾラに感化され『地獄の花』『闇の叫び』を発表する。しかし将来を案じた父の勧めで1902年渡米。ハイスクールで学んだ後公使館や横浜正金銀行に勤める。正金銀行リヨン支店に転属となり渡仏。フランスでは上田敏と知己を得た。1908年帰国しこの海外での経験を下にあめりか物語 』『ふらんす物語などを書く。1910年慶大教授に就任、『三田文学』の主宰者となり、自らも『すみだ川』『冷笑』などで現代文化を鋭く批評した。後は江戸情緒を深く愛し『腕くらべ』『つゆのあとさき』『おかめ笹』『墨東綺譚』など東京下町を舞台に花柳界などを描いた。戦後は『踊り子』『勲章』などを書いた。1952年文化勲章を受賞、芸術院会員なども務めた。日本・中国の古典はもちろん、英文学、仏文学に通じた真の文豪であった。東京の浅草を中心に下町を徘徊し芸者やストリッパーなどとも浮き名を流す生活を続け、結婚離婚の繰り返し、親族らとも絶縁。またよく引っ越した。偏屈な性格で、常に銀行通帳と現金を持ち歩き(文化勲章も持ち歩いたといわれる)、下町に暮らす庶民以外誰とも打ち解けなかった。晩年は独り暮らしで、汚れ放題の市川市の自宅で喀血し死んでいるのが通いの手伝い婦によって翌朝見つかった。若い頃から死ぬまで書き続けた日記『断腸亭日乗』は彼の生活ぶりと思想や世間に対する批評が丸分かりで興味深い。自由気ままで西欧仕込みのハイカラぶり・グルメである一面と、破綻した性格で世捨て人のような暮らしはうらやましいような気の毒のような。猥褻出版事件で有名な『四畳半襖の下張』の作者でもある。


松本哉著
永井荷風という生き方 (集英社新書)

新渡戸稲造
(にとべいなぞう)
(1862〜1933)
南部藩士の子として盛岡に生まれる。クラークの影響が強かった札幌農学校(後の北海道大)の二期生として内村鑑三らとともに入学、キリスト教の洗礼を受ける。卒業後は「私は太平洋の橋になりたい」という意志で東大の英文科に進学し、途中でアメリカ、ドイツに留学、農政、農業経済学などを学ぶ。帰国後は農学者として母校札幌農学校の教授、東大教授、その後は東京女子大学長、拓殖大学学監などを歴任、キリスト教に基づく平和・博愛を旨とする教えを多くの若者にもたらした。また、国際連盟事務次長として国際平和に務め、戦争に反対した。著書に『農業本論』などがあるが、1900年に滞在していた米カリフォルニアで英文で書き上げた『武士道(BUSHIDO: The Soul of Japan)』は後にドイツ語、フランス語、ロシア語など各国語に翻訳され世界中でベストセラーとなり、新渡戸の名は一躍世界の知識人に知られるようになった。セオドア・ルーズベルト大統領が感激して日露戦争講和にアメリカが協力する原因となった話は有名。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まり、優れた日本精神を説いたこの本は、明治以来西洋文明に圧倒され自信を失いつつあった日本人にも世界に誇れる精神があることを思い直すきっかけになったとも言われる。旧5000円札の肖像に選ばれたが、マギー司郎とは血のつながりは無い。
武士道 (岩波文庫)

参考書は↓ハーフマニア
国際結婚した有名人のコーナー。
青山胤道
(あおやまたねみち)
(1859〜1917)
美濃国中津川苗木藩の下級藩士の子。大学東校に入学し、卒業後医学部病理学教室のベルツ教授の助手となった。その後ベルリン大学に留学して内科学を専攻。帰国後帝国医科大学教授となり博士となる。1894年、ペスト調査のため北里柴三郎、石神亨らと香港に派遣されるが中途感染して死にかけた。この事件は日本では新聞の号外が出されるほどのニュースとなった(この時北里はペスト菌を発見。また、危篤の報を夫人に伝えたのは親友でもあった森鴎外)。後東大病院青山内科の主宰者として多くの患者を救った。その後、医科大学長、癌研究会会頭、帝国学士院会員、宮内省御用掛、伝染病研究所長などを歴任、日本医学会の重鎮として近代日本の内科学を確立し、また後進の育成や医学会の発展に努めた。樋口一葉を最後に診察した人物でもある。
(調査中)
浅井忠
(あさいちゅう)
(1856〜1907)
江戸屋敷住まいの佐倉藩士の子として生まれる。工部大学付属美術学校に入学。フォンタネージの教えを受け、日本最初の洋画団体である明治美術会を創設。フランスに2年間留学し水彩と油彩を学び、日本洋画界の発展に尽くした。東京美術学校、京都工芸学校教授、文展審査員などを歴任。梅原龍三郎、安井曽太郎、石井柏亭らを育てた。代表作『春畝』『収穫』『グレー風景』などがある。夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルといわれる。
浅井忠 (新潮日本美術文庫)
黒田清輝
(くろだせいき)
(1866〜1924)
鹿児島出身。法律家を目指しパリに留学するが絵画研究に転じる。帰国後白馬会を結成、後東京美術学校教授となる。外光派の影響を受けた画風を特色として、洋画の先駆者として知られた。後の洋画家の育成と、政治的に大きな役割を果たした。代表作に『湖畔』、『読書』などがある。

岡倉天心(覚三)
(おかくらてんしん)
(1862〜1913)
開成学校(後の東大)で政治学・理財学を学ぶ。講師だったフェノロサの影響で東洋美術、日本美術の偉大さに目覚めた。ヨーロッパを視察した後、フェノロサと協力して東京美術学校(現・東京芸大美術学部)の開設に務め、初代校長となって、横山大観、下村観山、菱田春草らを育てた。しかし1898年学校騒動が起きて校長を辞任。横山大観らと日本美術院を創立。新しい日本画・日本美術の創造を目指した。1904年、ボストン美術館中国・日本美術部に勤め、日本美術の収集・研究・保存・保護に当たった。英語で『東洋の理想』『茶の本』を書き、東洋の精神や芸術などを欧米に広く紹介。特に『茶の本』は今なお新渡戸稲造の『武士道』とともに日本人の心を伝える名著として知られている。
茶の本―英文収録 (講談社学術文庫)
原敬
(はらたかし)
(1856〜1921)
岩手県生まれ。旧盛岡藩士の子。藩校や神学校、私塾などを経て1876年、司法省法学校に入学するが退学処分となる。その後新聞記者として活動するが、つてで外務省に入り、中国・天津領事、パリ駐在の書記官、外務次官などを務める。大隈重信とそりが合わず、大隈が外務大臣となると外務省を退官。大阪毎日新聞に入社し多くの論説を残し、後に社長となり経営手腕を揮った。1900年、伊藤博文が組織した立憲政友会の幹事長に選任され、以後政治家として活躍。西園寺公望内閣で内務大臣などを歴任、1918年、華族出身でない最初の首相となり、「平民宰相」と呼ばれた。日本の政党政治の元を作り、英米、中華民国との信頼関係を結ぶことに努め、またパリ講和会議、国際連盟への加盟など得意な外交政策を進めたが、シベリア出兵の撤退の遅れ、社会主義者への弾圧などが人々の不満をまねき、東京駅で右翼系の青年に暗殺された。東京駅には「原敬遭難現場プレート」が残されている。
山本四郎著
評伝 原敬〈上〉

川田稔著
原敬と山県有朋―国家構想をめぐる外交と内政 (中公新書)

三谷太一郎著『日本政党政治の形成―原敬の政治指導の展開

内村鑑三
(うちむらかんぞう)
(1861〜1930)
高崎藩士の子として江戸に生まれる。クラーク博士の影響が濃かった札幌農学校に入学後、キリスト教に入信。新渡戸稲造、宮部金吾らと同級生となった。卒業後は北海道開拓使として活躍。1884年渡米し神学校などで学んだ後帰国。1891年、講師として勤務していた第一高等学校で、信仰上の立場から教育勅語に敬礼しなかったために辞めさせられた(不敬事件)。その後黒岩涙香が社主を務める朝報社に入社し、キリスト教の考えに基づく文章を多く掲載し文化人や青少年に大きな影響を与えた。しかし日露戦争を擁護する同社に反対を唱え、退社。正義と平和を愛する姿勢を貫いた。教育者として優れた人材を多く育て、門下生に正宗白鳥(作家)、矢内原忠雄(東大総長)、南原繁(東大総長)、鶴見祐輔(作家)らがいる。自伝『余は如何にして基督信徒となりし乎』は日本人の自伝の代表作のひとつとされ、また著書『代表的日本人』は海外向けに英語で書かれた優れた日本人論として良く知られている。
代表的日本人 (岩波文庫)

正宗白鳥著
内村鑑三・我が生涯と文学 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

小原信著
内村鑑三の生涯―日本的キリスト教の創造 (PHP文庫)
有島武郎
(ありしまたけお)
(1878〜1923)
薩摩藩士で実業家の有島武の子として東京に生まれ裕福な暮らしを送る。学習院卒業後、農学者を目指して札幌農学校に入学。在学中に内村鑑三の影響を受けてキリスト教徒となった。1903年に渡米しハーバード大学などで文学や哲学を学び、次第に社会主義に傾倒するようになった。帰国後は母校などで英語などを教えていたが、その間にホイットマン、イプセン、ツルゲーネフ、トルストイらに熱中し、また同時期に弟の画家・有島生馬の紹介で志賀直哉や武者小路実篤らと知り合い、弟里見クとともに同人誌『白樺』に参加した。1916年、結核で妻が死に、さらに父が亡くなったことから教鞭を辞し本格的な作家生活に入った。小説『或る女』『カインの末裔』『小さき者へ』『生れ出づる悩み』、童話『一房の葡萄』、評論『惜しみなく愛は奪ふ』などを発表し、白樺派の中心人物として文壇の地位を確立した。しかし資産家階級の自己の生き方に苦悩し、北海道ニセコにあった有島農場の開放(後に狩太共生農団となる)などの財産放棄の末、婦人公論記者で人妻だった波多野秋子と軽井沢の別荘浄月庵で情死した。長男は黒澤明の『羅生門』『白痴』などで知られる俳優の森雅之。
伊藤信吉著
ユートピア紀行―有島武郎・宮沢賢治・武者小路実篤 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

北村巌著
有島武郎論―二〇世紀の途絶した夢とその群像の物語 (柏艪舎エルクシリーズ)

生井知子著
白樺派の作家たち―志賀直哉・有島武郎・武者小路実篤 (和泉選書)

中山和子、江種満子編
総力討論 ジェンダーで読む『或る女』
朝河貫一
(あさかわかんいち)
(1873〜1948)
福島県二本松の出身。東京専門学校(現早大)を主席で卒業後、渡米。ダートマス大、エール大学院で英文の『大化の改新』を発表し、哲学博士号を得る。以後36年間に渡ってエール大で日本史とヨーロッパ中世史を講義した。日本の古代と近代との比較、日欧の「荘園」の比較・研究などの諸論文を欧米で発表。日本・ヨーロッパ封建史学の世界的権威として知られた。晩年は比較法制の研究を集大成した。日本語の主著に『日露衝突』、『日本の禍機(講談社学術文庫)』などがあり、日露戦争後の日本の外交を批判し戦争回避の道を説いた。
The Documents of Iriki―入来文書

阿部善雄著
最後の「日本人」―朝河貫一の生涯 (岩波現代文庫)

清水美和著
「驕る日本」と闘った男―日露講話条約の舞台裏と朝河貫一
伊沢修二
(いざわしゅうじ)
(1851〜1917)
教育者。信濃の下級武士の子として生まれる。江戸に出て蘭学などを学ぶ。大学南校を卒業後アメリカに留学。ハーバード大などで教育学、理化学、音楽を学んで1878年帰国。翌年東京師範学校の校長となり、音楽取調掛に任命されるとアメリカの師だったルーサー・メーソンを日本に招き、メーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小學唱歌集』を編纂。『紀元節』などの唱歌の作曲もした。1888年には東京音楽学校、東京盲唖学校の校長となり音楽教育、聾唖者の支援などに尽くした。音楽の分野のみならず国家教育、教育勅語の普及など、明治初期の基本教育全般の確立、今日の義務教育の理念の成立にも大きく寄与した。余談だが、伊沢はハーバード時代に友人の金子堅太郎(後の農相)とともにベルの研究所を訪ね、二人は発明されたばかりの電話で会話をしたという。これが最初の日本人の「電話による会話」であり、電話で話された最初の「(英語以外の)外国語」であった。
洋楽事始―音楽取調成績申報書 (東洋文庫 (188))

埋橋徳良著
日中言語文化交流の先駆者―太宰春台、阪本天山、伊沢修二の華音研究
池田菊苗
(いけだきくなえ)
(1864〜1936)
京都生まれの化学者。ドイツ・ライプチヒ大学に留学。1901年ドイツ留学から帰る途中でロンドンに立ち寄り、夏目漱石と同じ下宿になり、親友となった。帰国後は東京帝国大学の教授となり、1908年、昆布の旨みがグルタミン酸であることをつきとめ、グルタミン酸ナトリウムを発明。ヨード製造で財を成していた二代目鈴木三郎助とともに「味の素」を開発・商品化した。
堀章男著
味の素 食文化のクリエーター―地球的な視野で「食と健康」に貢献する総合食品企業のすべて

広田鋼蔵著
化学者池田菊苗―漱石・旨味・ドイツ (科学のとびら)
石井菊次郎
(いしいきくじろう)
(1866〜1945)
上総国茂原の生まれ。帝国大学法科大学卒。外務省に入りフランス、清国公使館員、アメリカ大使を歴任、1915年大隈重信内閣の外務大臣となり、日露協約を締結するなど活躍。また、遣米特使としてアメリカに赴き、アメリカ上下両院で英語で大演説を行い、「石井・ランシング条約」を成立させ、中国における日本の国益を認めさせた。その後も国際連盟日本代表、国際連盟の議長や、ジュネーブ海軍軍縮会議の日本全権などを歴任。退官後も枢密顧問官となり、長老として外交界に重きをなした。1945年の東京大空襲で明治神宮で行方不明になった。 著書に『外交随想』がある。
吉村道男著
日本外交史人物叢書 (第6巻)

池田十吾著
石井・ランシング協定をめぐる日米交渉
豊田佐吉
(とよださきち)
(1867〜1930)
静岡出身。大工職人から家内織物の改善を試み、1890年、日本で最初の動力織機、「豊田式木製動力織機」を発明、初めての特許を取得。安い木を使い無駄を極力省いたこの織機は外国製より大幅コストダウンを実現し、全国に急速に普及、繊維業の発展に大きく寄与した。1910年にはアメリカ、ヨーロッパを視察、後に中国、インド、イギリスなどに技術輸出を果たした。1926年には画期的な豊田式自動織機を完成、豊田自動織機製作所を創設、現在のトヨタグループの礎を築いた。晩年まで研究を重ね、生涯に実に119件もの特許を取得し、それぞれ世界20カ国でも特許を取得。1985年には「日本の偉大なる発明者10人」に選ばれている。豊田自動織機製作所の常務だった息子・喜一郎は父の勧めで自動車製造に乗り出し後のトヨタ自動車工業株式会社を創設した。
小栗照夫著
豊田佐吉とトヨタ源流の男たち

石井正著
トヨタの遺伝子―佐吉と喜一郎のイノベーション

楫西光速著
豊田佐吉 (人物叢書)
南方熊楠
(みなかたくまぐす)
(1867〜1941)
和歌山の商家の生まれ。幼い頃から並外れた記憶力を持ち神童と呼ばれ、学校の授業に満足せず自ら山野を駆け巡って事物を観察・採集、図書館で書写に明け暮れた。大学予備門を中退後、渡米して独学で生物学・植物学を学ぶ。中南米を放浪した後イギリスに渡り、ロンドン学会の天文学懸賞論文で第1位になり注目を浴びた。大英博物館に出入りして研究し、同館の東洋調査部の『日本書籍目録』の作成に従事し、ジキンスらによる日本古典文学の英訳にも協力した。この間、科学誌『ネイチャー』などに多くの論文を寄稿した。1900年に帰国、故郷の紀州那智勝浦、田辺に住み主に粘菌類の採集を中心に生物学・民俗学などの研究に没頭、多くの新種を発見した。その一つ、彼が世界で初めて発見した粘菌は彼の名をとって「ミナカテルラ・ロンギフィラ」と名づけられている。「歩くエンサイクロペディア(百科事典)」と呼ばれ専門の生物学以外の博識も有名で、研究分野は人類学・考古学・宗教学など多岐に渡る。また語学も堪能で19カ国語に通じたといわれる。1907年に神社合祀令に反対し自然保護運動を始め、これが日本最初のエコロジー活動とし今日高く評価されており、一時「ミナカタ」ブームといわれる再評価の風潮が高まった。昭和天皇は「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ」という歌を残している。「大正の三奇才兼三畸人」とも呼ばれ、奇抜な言動や行動は、例えば食べたものを反芻することができたとか、何度も幽体離脱したとか多くの逸話を残しているが、履歴(自伝)を依頼したところ全長25尺の巻紙に細かい文字でびっしり書かれていたというのは有名な話(『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー (河出文庫)』に収録)。著書に『南方閑話』『十二支考』などがある。和歌山県白浜町には南方熊楠記念館がある。
飯倉照平著
南方熊楠―梟のごとく黙坐しおる (ミネルヴァ日本評伝選)

水木しげる著
猫楠―南方熊楠の生涯 (角川文庫ソフィア)

鶴見和子著
南方熊楠―地球志向の比較学 (講談社学術文庫)

紀田順一郎主演・監修のDVD
学問と情熱 南方熊楠 萃点は見えたか......
井上哲次郎
(いのうえてつじろう)
(1855〜1944)
筑前国太宰府の医師の子として生まれる。新設された東京大哲学科でフェノロサらから哲学を学ぶ。東大卒後、助教授となりカントとショーペンハウアーの哲学の紹介、外山正一、矢田部良吉らと『新体詩抄』(1882)を刊行。新体詩運動の先駆者となる。1884年、ドイツに留学。帰国後帝大教授となり西欧文化の移入と仏教とドイツ哲学の融和を目指し、現象即実在論を提唱。日本の東洋哲学史研究を推し進めた。著書に『日本朱子学派の哲学』などがある。「形而上」という日本語を創出した人物としても知られる。
関口すみ子著
国民道徳とジェンダー―福沢諭吉・井上哲次郎・和辻哲郎
杉本鉞子
(すぎもとえつこ)
(1873〜1950)
旧姓は稲垣。越後長岡藩の最後の家老稲垣茂光の6女として生まれ、兄の友人で米国在住の貿易商杉本松雄と結婚。文明開化の東京の女学校で英語を学んだ後に24歳で渡米。オハイオ州シンシナティ市に暮らし、2女をもうけた。1910年に夫が死去し一時帰国するが再び渡米。およそ30年に渡ってアメリカに滞在し文筆家となり、作家クリストファー・モーレーに認められ、英語で書いた自伝『“A Daughter of the Samurai” 武士の娘が1923年12月号から雑誌『アジア』に1年間連載され話題を呼び、後に7カ国語に翻訳されて出版され大ベストセラーになった。この本は上級武士の古い生活の様子や行儀や嗜み、躾の他、明治期の日本の風俗習慣などがきめ細かく描写されており、現代日本においても貴重な資料として高い評価を得ている。1920年にはコロンビア大学で日本文化史を講義した(最初の日本人女性講師)。
多田建次著
海を渡ったサムライの娘 杉本鉞子

英日対訳付絵本(佐々木佳子著)
サムライの娘

長岡半太郎
(ながおかはんしろう)
(1865〜1950)
長崎出身。大村藩藩士の子として生まれ、藩校五教館で学んだ。東京大学理学部で山川健次郎・田中愛橘らの元で学び、卒業後は大学院に進み、教授・博士となるが、さらに1893年から1896年にかけドイツに留学、ルートヴィッヒ・ボルツマンのもとで学ぶ。帰国後は理化学研究所物理学長、大阪大学総長、日本学士院院長などを歴任。原子構造論・地球物理学を中心に地歪・電磁波・地震など広分野に業績を残し、数々の計測器の考案などで実績を上げた。特に「原子の中心にプラスの電気をもった核があり、そのまわりをマイナスの電気を持った電子がまわっている」という姿を先駆けて顕わにした有核原子模型(土星型原子モデル)の提唱は世界的に有名。1937年初代文化勲章を受章。本多光太郎、寺田寅彦、仁科芳雄ら多くの優秀な学者を育て日本の理論・実験物理学の育ての親と呼ばれる。

鈴木梅太郎
(すずきうめたろう)
(1874〜1943)
静岡生まれの科学者。東京帝大卒後ドイツに渡り、ベルリン大学でたんぱく質の合成を研究。帰国後、1910年に米糠を調べてオリザニン(ビタミンB1)の分離に成功。これが世界で最初にビタミンが抽出・発見されたものであり、当時日本人を苦しめていた脚気に効くことを証明した。帝大で教授として研究・後進の育成に努めるとともに1917年理化学研究所の設立に尽力、主任研究員になりビタミン学の発展に尽くし、合成酒、サリチル酸、乳酸などの研究・製造を行った。帝大(後に名誉教授)を退官後は東京農業大学農芸化学科教授に就任した。1943年文化勲章を受章。
山下政三著
脚気の歴史―ビタミンの発見

北里柴三郎
(きたざとしばさぶろう)
(1852〜1931)
熊本出身。藩校時習館から熊本医学校に進み医学に目覚め、上京して東京医学校(現・東大医学部)に学ぶ。卒業後長与専斎が局長であった内務省衛生局へ就職。その後内務省の命を受け1885年にドイツ・ベルリン大学に留学しコッホに師事、細菌学を学んだ。コッホは北里を助手として、結核の治療薬「ツベルクリン」を開発したことを発表。「コッホの四天王」と世界的な名声を得た。後にベーリングとともに破傷風、ジフテリアの血清療法に成功、第1回ノーベル医学・生理学賞の候補になった(この時、ノーベル賞はベーリングのみ受賞し、東洋人・日本人差別との批判があった)。またコッホが発見したコレラ菌の血清療法、赤痢、ペストなどの多くの病原体を発見するなどの世界の医学上の発展に大きな功績を上げた。しかし脚気=細菌説を唱えた東大閥と対立し、また研究所が東大の下に置かれることが決まり、ここで北里は東大医学部系と袂を分かち、福沢諭吉の支援を得て新たに伝染病研究所(後北里研究所・北里大学)を創設、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。さらに福沢死後に慶応大学医学部の創設にも尽力、教授としても活躍し多くの弟子を育て「日本の細菌学の父」と呼ばれた。1923年には全国の医師会の会長(現・日本医師会)となり運営に当たり、日本の医学の発展に寄与した。生涯師コッホを敬愛し、話し方や講義の仕方はコッホそっくりだった。いびきまでそっくりでコッホ夫人も驚いたという。コッホが来日した時もずっとつきそい、コッホが死んだ後は落胆激しく、研究所内に「コッホ神社」を建て、命日には祭を行うほどであった。厳しさから門下生からはドンネル先生(ドイツ語で雷おやじの意)との愛称で呼ばれた。なお、彼が培養に成功した破傷風菌はマッチ棒のような形をしていた。現在、北里研究所や大学、北里病院のマークはこの菌を象ったものである。
山崎光夫著
北里柴三郎―雷と呼ばれた男 (中公文庫)

山崎光夫著
ドンネルの男・北里柴三郎

砂川幸雄著
北里柴三郎の生涯―第1回ノーベル賞候補

福田眞人著
北里柴三郎―熱と誠があれば (ミネルヴァ日本評伝選)
志賀潔
(しがきよし)
(1870〜1957)
宮城生まれの医学者・細菌学者。仙台藩の藩医の志賀家に養子として入り、医師になるべく帝国大学医科大学(現・東大医学部)に入学。卒業後は伝染病研究所に入り北里柴三郎の下で細菌を研究した。1897年「志賀赤痢菌」を発見し世界的に名を知られた。赤痢菌の一部は志賀の名にちなんでShigellaという属名が付けられているが、医学的に重要な病原細菌の学名に日本人研究者の名前が付いている唯一の例である。1901年ドイツ・フランクフルトに留学し血液学・免疫学・化学療法の基礎を築いたパウル・エールリヒに師事。大きな成果を上げ、帰国後は医学博士となり、北里研究所・慶応大学医学部教授、京城帝国大学医学部長・総長を歴任。その間も研究を続け、脚気(細菌説の否定)、結核(BCGワクチン)、ハンセン病(ライ菌の培養)などの病原の研究・治療法を開発した。1944年文化勲章受賞。
志賀潔―或る細菌学者の回想

野口英世
(のぐちひでよ)
(1876〜1928)
現行の千円札の肖像に使われている医学者。
「日本人が世界に誇る偉人」は誰か?というアンケートを取ったとしたら、おそらく彼が1位か2位に選ばれるであろう。
福島県の猪苗代湖畔の貧しい家の長男として生まれる。幼名は清作。父佐代助は酒好きの怠け者として村では有名で家を留守がちであった。その分、勤勉で忍耐強い母シカに主に育てられたといわれる。とりわけ1歳半の時に清作が囲炉裏に左手を突っ込み大火傷し、指がくっついてしまうという障害を負ってからは母から献身的な教育を受けた。清作は小学校に入ると手の障害から同級生らに「てんぼう」と呼ばれイジメに遭うが、母や教師の励ましを受け勉強に精を出し、四年生の頃には全学年でトップの成績を修め、「生長(教師の代役)」になった。当時高等教育を受けられたのは士族か豪農の子女だけだったが、卒業を前に清作の才を惜しんだ小林栄教諭の尽力で猪苗代の高等小学校に進むことが出来た。片道6キロの道を毎日歩いて通い、ここでも清作は一番の成績を修める。そして先生方や同級生の寄付を得て、会津若松の渡辺鼎医師の診断で左手の手術を受けることになった。手術の成功は清作の人生の大きな転機となった。高等小を卒業すると医者になることを目指して、渡辺が開業する会陽医院の書生となり、英・仏・独の語学や医学の勉強に励んだ。数多くの書生の中でも清作は一番年下であったが、メキメキと実力を発揮し、渡辺が軍医として日清戦争に赴く時に、医院の仕切りを任せられるほどであった。この頃医院にあった顕微鏡で回帰熱の病原体を見た清作は、細菌学に興味を抱き医学の中でも特に細菌学・免疫学の研究者を志した。渡辺医師の友人で東京の歯科医だった血脇守之助が、清作の優秀ぶりに目を留め、上京を勧める。こうして清作は、単身上京、血脇も勤める高山歯科医学院(現・東京歯科大学)の小使となり、済生学舎に通いながら医術開業試験を目指した。1897年、遂に清作は試験に合格(合格者は80人中4人)、正式な「医学者」となり、高山歯科医学院の小使から講師となった。血脇の推薦で順天堂医院の医学書の編集部員助手となるが、清作はすでに多くの論文を発表するほどの実力を持っていた。翌1898年には北里柴三郎率いる伝染病研究所に入所した。研究所員のほとんどが帝大出のエリートだったため彼らの反発を買うが、北里の強い推挙で入所したといわれている。このころ坪内逍遥が書いた小説『当世書生気質』に登場する主人公の名が「野々口清作」という名の放蕩者の医学生という設定だったので、恩師小林と相談して清作は「野口英世」と改名する。1899年、アメリカからフレスキナー博士が来日すると、英語が得意な野口が通訳兼案内役に選ばれた。この時野口は博士の話を聞いて強く「アメリカで研究したい」と望むようになった。また、横浜港に着いた船の病人の中にペストに罹っている者を見つけ、その手柄から国際予防委員会のメンバーに選抜され、清(中国)にペスト治療のため派遣される。ここで世界の一流の医学者や研究者の間で野口の名は少し知られるようになった。1900年、野口は血脇・小林両恩師から資金を借りて、遂に憧れのアメリカに渡った。アメリカでは北里の紹介状を持って、フレクスナー博士の勤めるペンシルベニア大学で助手になる。この時、博士から蛇毒の研究というテーマを与えられ、毎日のように毒蛇から毒を取ってその系統や免疫の方法などを研究した。地味で危険な仕事であったが研究成果を論文にまとめる。この論文は博士に激賞され、研究会で発表されて野口の名は一気に知れ渡ることになった。1901年、ロックフェラー医学研究所が設立されると一番上の助手に採用される。1903年、フレクスナーの指示によりデンマーク、コペンハーゲンの血清学研究所に留学、アメリカに帰国してからはロックフェラー医学研究所に戻り、蛇毒の他、結核、トラコーマ、梅毒の研究を開始。1911年、メリー・ダージスと結婚。1913年、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功し、これが世界で報道され、野口の名は「ドクターノグチ」として国際的に知れ渡るようになった。同年、独ホフマン博士によってウィーンに招かれ、ドイツ皇太子やミュラー博士をはじめとする欧州各国の研究者を前に講演を行う。この頃野口の研究はコレラ、チフス、ジフテリア、小児麻痺、狂犬病などに及び、これらの研究も評価され、ノーベル医学賞候補になった。また日本からは京都大学医学博士、東京大学理学博士、帝国学士院恩賜賞が与えられた。1915年、40歳になった野口は17年ぶりに帰国。国民を挙げての歓迎を受け、母シカ、恩師小林・血脇らと再会した。同年11月再び渡米、2度目のノーベル医学賞候補となる。1918年、ロックフェラー財団のフレクスナーの指示で南米エクアドルに渡り黄熱病の研究に従事した。まだワクチンのなかったこの伝染病の病原菌発見と治療法「野口ワクチン」の開発に成功。3度目のノーベル賞候補になった。1920年、ペルーに渡りオロヤ熱という風土病を研究。1927年、アフリカの黄熱病を研究していたロックフェラー医学研究所の同僚から野口ワクチンが効かないことが報告され、野口自らアフリカに渡って研究することを決意。1928年、ゴールドコースト(現・ガーナ)のアクラという町で粗末な施設の中、医療器具も足りない状況で研究と治療に当たった。しかし、南米の黄熱病とは違う種類であることが判明、また新たに5種類の病原体を発見。この成果を元にアメリカに戻ろうとしていた矢先に彼自身も黄熱病に感染し、遂に51歳の生涯を閉じた。米ニューヨークのウッドローン墓地に葬られた。
惜しくもノーベル賞は受賞しなかったが、戦前(本人存命中から伝記が出版されている)から偉人として日本人皆から尊敬され、日・米はもとより、エクアドルやペルーなどでもよく知られている人物である。因みにWikipediaでは13ヶ国語で紹介されている。しかし幼い頃の極貧生活の反動か、長じて書生・医学生時代からの放蕩癖(大臣が行くような高級割烹や遊郭に出入りしていた)・借金魔としての一面も有名で、完全無比・清廉潔白な人よりそこが親しまれる原因かもしれない。故郷猪苗代湖畔の記念館には生家が移築され、火傷した囲炉裏なども残されている。文盲だった母シカがアメリカにいる息子に宛てて自ら書いた手紙も感動もので、この文面は磐越西線の車両のデザインに採用されている。それにしても父親の影が薄いなあ。

原作は意外にも『失楽園』の渡辺淳一。『遠き落日〈上〉 (集英社文庫)



木暮葉満子著
野口英世―21世紀に生きる

山本厚子著
野口英世は眠らない

イザベル・R.プレセット著
野口英世

一牛 雄司著
大陸の伝説―シナリオ 野口英世とペルーの物語


↑M2 ファンキー 野口くん(肌にやさしい自然抗菌作用!!だそうです。さあみんなこれを着けてパーティに繰り出そう!)

参考書は↓ハーフマニア
国際結婚した有名人のコーナー。
山極勝三郎
(やまぎわかつさぶろう)
(1863〜1930)
長野県上田藩士の子として生まれる。東京の医師山極吉哉の養子となり、上京。ドイツ語を学びつつ医師を目指した。東京帝国大学予備門に入学、1888年帝大医学部を首席で卒業し、そのまま研究室に入り、助教授となる。1891年、ツベルクリン研究のためにドイツに留学。ベルリン大学病理学教室でウィルヒョウに師事。帰国後は帝大教授に就任し病理学、病理解剖学を講義した。癌研究では日本の第一人者と言われ、当時、癌の発生原因は不明であったが、山極はイギリスの煙突掃除夫に皮膚癌の発生が多いことに着目し実験を開始する。実験はひたすらウサギの耳にコールタールを塗り続けるという地道なもので、助手の市川厚一と共に、実に3年以上に渡って反復実験を行い、1915年にはついに世界初の人工癌の発生に成功。自身は結核に侵され病魔と闘いながらの苦難の道であった。これが「発癌=刺激説」を裏付けるものとして世界の医学者の注目を浴びた。1926年のノーベル医学生理学賞の最終選考に残るが、ネズミにゴキブリを食べさせて胃ガンを作った(寄生虫説)とするデンマークのフィビガーが受賞した(これは今日誤りであることが明確になっている)。1919年、帝国学士院は著書『癌の研究』に対して学士院賞を授与、また1928年、ドイツのソフィア・ノルドホフ・ユング賞を授与された。
小高健著
世界最初の人工発癌に成功した山極勝三郎 (人と学問選書)
秦佐八郎
(はたさはちろう)
(1873〜1938)
島根県出身。第三高等中学校医学部(現:岡山大学医学部)に入学、医者を目指す。岡山大学病院に助手として勤務、後1898年、上京し伝染病研究所に入所、北里柴三郎に学びペストの予防注射,免疫血清の創製に実績をあげた。ここでは野口英世と同期で、二人は「東の野口、西の秦」の異名をとった。日露戦争では軍医として活躍、その功が認められて1907年にドイツに留学、コッホ研究所でワッセルマンに免疫学を学び、1910年フランクフルトの国立実験治療研究所所長のエールリッヒ(ノーベル賞受賞者)と共同で梅毒の特効薬サルバルサン606号を開発。医学界に大きな反響を呼び起こした。帰国後は北里研究所、慶応大医学部の教授となり、研究と後進の指導に当たった。熱帯病の研究や、鈴木梅太郎と共に三共製薬に協力してアルサミノールの開発・製造などでも知られる。
秦八千代著
秦佐八郎小伝 (伝記叢書 (162))
仁科芳雄
(にしなよしお)
(1890〜1951)
岡山出身。東京帝國大工科大学(現・工学部)電気工学科を主席で卒業、大学院に進む。1921年渡欧し、名門ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所でα、γ、β線を発見したラザフォードに師事、後にドイツのゲッチンゲン大学、デンマークのコペンハーゲン大学に移り、量子学の権威ボーアに師事。ここで1928年スウェーデンの理論物理学者オスカル・クラインとともにクライン=仁科の式を導き、世界で注目を浴びた。7年半の研究の後帰国、理化学研究所・長岡半太郎研究室に所属し主任となる。1931年には理研に仁科研究室を立ち上げ、量子論、原子核、X線などの研究のほか、1944年にはサイクロトロンを完成させた。また、軍・政府の要請で原子爆弾の開発にも関わる(空襲により実現せず)。後広島に落とされた新型爆弾が「原子爆弾」であることを断定し政府に報告した。1946年文化勲章受賞。ノーベル賞を受賞した朝永振一郎、湯川秀樹らを育て「日本の現代物理学の父」と呼ばれる。月には彼に因んだNISHINAと名づけられたクレーターがある。
玉木英彦著
仁科芳雄―日本の原子科学の曙

関口たか広、佐々木ケン著
仁科芳雄 本多光太郎―基礎科学体系化なる (漫画人物科学の歴史 日本編)
本多光太郎
(ほんだこうたろう)
(1870〜1954)
愛知県生まれの物理学者。帝大を卒業後大学院に進み長岡半太郎の下で磁気の歪み現象を研究。その後ドイツやイギリスに留学した。帰国後は東北帝国大学教授となり主に鉄鋼材料・磁力について研究。1916年、従来と比べて3倍の抗磁力を持つKS鋼を高木弘とともに発明した。(KSとは研究費を寄付した住友吉左衛門(すみともきちざえもん)の頭文字)。この後も、KS鋼の数倍の抗磁力をもつ永久磁石合金である新KS鋼(NKS鋼)を発明。いずれも当時世界最強の永久磁石鋼であった。これによってモーターや発電機をはじめ電気機器の性能を飛躍的に向上させ、日本の工業の発展に寄与した。東北帝国大学の金属材料研究所長、総長を歴任し世界有数の研究機関に拡充し、後進の育成にも努めた。1937年第1回文化勲章を受章した。
平林真、本多記念会著
本多光太郎―マテリアルサイエンスの先駆者
鈴木大拙
(すずきだいせつ)
(1870〜1966)
日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者。金沢藩藩医の子として生まれる。東京専門学校(現・早大)を経て東京帝大哲学科を卒業。鎌倉・円覚寺で釈宗演老師の下に修行、「大巧は拙なるに似たり」に因んで「大拙」の名を得る。1897年、27歳の時、老師の推薦で渡米し東洋学関係の書籍の出版社で編集員と活躍する一方、英文で『大乗起信論』『禅と日本文化などを著し出版。12年に及ぶ欧米での生活で東洋思想の翻訳と講義を行い、禅・仏教の思想・文化を世界に紹介するのに尽力した。帰国後学習院、大谷大学の教授となり、1949年文化勲章受賞。生涯を鎌倉・東慶寺松ヶ岡文庫での研究に捧げ、96歳で大往生を遂げた。
外国人が禅を学ぶのにまず読む本といえばこれら大拙の一連の書である。
大拙 禅を語る―世界を感動させた三つの英語講演 (CDブック)
禅とは何か (角川文庫ソフィア)

日本的霊性 (中公クラシックス)

上田閑照、岡村美穂子編・著
鈴木大拙とは誰か (岩波現代文庫―学術)
藤島武二
(ふじしまたけじ)
(1867〜1943)
薩摩藩士の家に生まれる。初め日本画家を目指し川端玉章に学ぶ。1890年に西洋画に転じ、1896年に東京で白馬会結成に参加した。同年、黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京芸大)助教授に推され、以後、没するまで同校で後進の指導にあたった。1901年からは文芸雑誌『明星』の表紙画や挿絵をえがき、白馬会展でも『天平の面影』(1902)、『蝶』(1904)など、文芸界のロマン主義的傾向に呼応する作品を次々と発表した。 1905年、文部省から4年間の留学を命じられ、渡欧。フランス、イタリアなどで同時代のヨーロッパ絵画と古典絵画をまなび、帰国後は作風を一変させて骨格の太い重厚な油彩表現を展開した。1937年、最初の文化勲章受章者となった。後年は東洋的な題材を多く残した。
藤島武二 (新潮日本美術文庫 (28))
藤田嗣治
(ふじたつぐはる)
(1886〜1968)
東京の軍医の子として生まれる。父の後輩であった森鴎外の勧めで東京美術学校西洋画科本科に入り黒田清輝らから本格的に絵を学び画家を目指す。1913年渡仏、パリに約10年間留学しモジリアーニやピカソ、キスリングらと交流を結び、キュビズム、シュールリアリズム、素朴派などに影響を受けた。1914年第一次世界大戦が始まると生活は困窮したが、フランス人女性と結婚、戦争が終わる頃には藤田は個展を開くほどの画家となり、1919年サロン・ドートンヌに6点を初出品して全て入選という快挙を成した。日本画風の墨の線描と透明な色彩による独特の技法で名声を得、パリ画壇の寵児とまで呼ばれた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家であり、フランスで一番名を知られた日本人である。第2次世界大戦が始まると日本に帰国するが陸軍から求められて戦意高揚のための絵(戦争画)を描いた。しかし戦後はその責を問われるなど日本から冷遇され、1949年フランスに戻り二度と日本には戻らなかった。1954年にフランスに帰化。カソリックの洗礼を受けレオナール・フジタとなった。代表作に浮世絵からヒントを得たという「乳白色の裸婦」を描いた『五人の裸婦』、『浜辺の女』や『カフェにて』、猫を描いたシリーズなど。晩年は子供たちや宗教画を主に描いた。1925年にベルギーからレオポルド勲章を、1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を受章。おかっぱ頭・丸眼鏡・ちょび髭といったユニークなファッションと、「お調子もの(フーフー)」とあだ名された数々の奇行、自由奔放な女性遍歴なども有名だが、生前は日本ではほとんど話題にならなかったが、近年になって再評価され回顧展や関連書の出版が盛んになっている。


猫の本―藤田嗣治画文集

腕(ブラ)一本・巴里の横顔―藤田嗣治エッセイ選 (講談社文芸文庫)

近藤史人著
藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)


八木秀次
(やぎひでつぐ)
(1886〜1976)
八木アンテナ・マグネトロンの研究で世界的に有名な電気工学者。大阪生まれ。1909年帝国大学工科大学電気工学科卒、1913年から3年間、ドイツ、イギリス、アメリカへ留学。ドイツでは著名な電波工学者バルクハウゼン、イギリスでは真空管の発明者フレミングに師事した。帰国後は創設されたばかりの東北帝国大学電気工学科で電波工学の教授と研究を始める。1925年、研究室の助手だった宇田新太郎とともに八木・宇田アンテナの基礎理論を発表、特許を取得した。単純な構造ながら驚異的な精度を誇る電波の受送信機であったが、日本国内では反響はまったくなく、学界からも無視された。これに注目したのは第二次世界大戦真っ只中の敵国、イギリスであった。イギリス軍はこれを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上はもちろん、戦艦や航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナを装備し、敵戦隊の発見をいち早く察知するのに成功し、戦局を優位に運んだといわれる。1942年シンガポールを攻略した日本軍が接収したイギリス軍基地から押収したレーダーに関するノートに「YAGI」という謎の文字を見つけるが意味が分からず、捕虜に聞いたら「お前ら知らないのか?アンテナを発明した日本人だ!」と言われたという逸話は有名。八木は東工大の学長をはじめ東北帝大、大阪帝大の教授、電気通信所の設立などに尽力し後進の指導にも務めた。戦後テレビの時代が来て「八木」の名は一層世界に知れ渡ることになり、1952年には八木アンテナ株式会社を創立、初代社長を務めている。1956年に文化勲章を受章。八木アンテナは日本人が誇る大発明のひとつであり、英語の辞書(ネイティブの使ういわゆる英英辞典)には今なお"YAGI"が載っている。1956年に文化勲章を受章。
電子立国日本を育てた男―八木秀次と独創者たち
高柳健次郎
(たかやなぎけんじろう)
(1899〜1990)
世界のテレビ工学の草分け的存在。静岡生まれ。幼いころは病弱な劣等生だったという。小学校でモールス信号を知り、無線に興味を持った。東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業。神奈川県立工業の教諭時代、フランスの雑誌のポンチ絵に未来のテレビを描いたものを偶然見つけ、それに触発されて1923年「無線遠視法」(テレビ)研究に着手。翌年に浜松高等工業学校電気学科の助教授となり1926年12月25日(偶然だが大正天皇が崩御し、昭和が始まった日)、送像側に機械式のニプコー円板と受像側に電子式のブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。これが世界で初めてのブラウン管による電送・受像(電子式)である。しかし国際特許を取らなかったため、「世界初のテレビ」の栄誉が与えられなかった。しかしながら、彼の業績は、世界で最初に画像走査器具を創案した独ポール・ニプコー(1884年)、ブラウン管を発明した独カール・ブラウン(1897年)、ブラウン管を使ったテレビシステムを着想したロシアのボリス・ロージング(1911年)、史上初めて動く物体をテレビで遠距離放送することに成功させた英ジョン・ロジー・ベアード(1925年)、世界初の電子式撮像管を開発し、完全電子式テレビシステムの公開実験を世界で初めて行った米フィロ・ファーンズワース(1927年)、撮像管アイコノスコープをはじめ完全電子化されたテレビシステムを発明した米ウラジミール・ツヴォルキン(1933年)と並び称される快挙であった。(この辺の事情は荒俣宏著『テレビ博物誌』に詳しい)。
1930年には浜松高工教授となり、1936年に現在の方式の基本となる走査線200本の電子式ブラウン管(飛越走査方式テレビジョン)の試作に成功。その翌年には日本放送協会技術研究所に出向しテレビジョン部長として、1940年に予定された東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究をする。しかし1938年には日中戦争が激化するなどでオリンピックは中止、1939年、無線のテレビ送受信に成功するも研究中断させられ、海軍技師としてレーダーや電波兵器などの軍需に応じた研究をした。戦後になって1950年には日本ビクター取締役(後副社長)に迎えられ、他のメーカーも指導しつつテレビの商品化やVTRの開発などに尽力した。1961年第1回国際テレビ技術科学祭で功労賞、1963年には米コロンビア科学功績賞、1981年に文化勲章を受章。高柳の最初のテレビ受像機の復元品が日本ビクター横須賀工場の記念館、NHK放送博物館、模型は国立科学博物館で展示されている。
テレビ事始―イの字が映った日

荒俣宏著
テレビ博物誌

清水達也著
未来をもとめてひたむきに―テレビの研究ひとすじに生きた高柳健次郎 (PHPこころのノンフィクション)

NHK映像ファイル 「あの人に会いたい」3 [DVD]
モルガンお雪(1881〜1963)
本名は加藤雪。京都の芸妓で、胡弓の名人として謳われた。世界周遊の途中、たまたま遊びに来ていたアメリカ人のジョージ・デニソン・モルガンが彼女に一目惚れ。当時彼女には恋人がおり、何度も彼の求婚を断っていたのだが、結局恋人が別の女性と結婚し、また3年越しの熱心な求婚(ジョージは「結婚してくれなければ死ぬ」といって自殺未遂騒動まで起こしている)に絆され、当時4万円という莫大な身請け金(現在に換算すると2億円とされる)によりモルガンに引き取られ、1905年に横浜で結婚した。ジョージ・モルガンはモルガン財閥を創設したジョン・ピアポント・モルガンの甥にあたる大富豪で、お雪は一躍「玉の輿」となり、世間の羨望・嫉妬の嵐の中、アメリカに渡った。しかしアメリカでは人種差別と日本と同じく彼女に対する風当たりは強く、後にパリに移った。パリでは「日本のシンデレラ」として社交界で大評判となるが、1915年に夫が若くして亡くなり、お雪は未亡人となる。その後モルガン一族との遺産相続を巡る争いに巻き込まれるが、裁判で勝ち、大金を引き継いだ彼女はその後はパリやニースで静かに暮らした。その間、タンダール男爵と恋に落ちるが結婚はせず彼も亡くなり、彼女の遺産も教会に寄付などして社交界からは遠ざかった生活をしていた。しかし1938年、第2次世界大戦が勃発、フランスにいられなくなったお雪はおよそ33年ぶりに日本に帰り、京都でキリスト教の洗礼を受けて敬虔なクリスチャンとして余生を送った。1月20日は「玉の輿の日」だが、この日は「モルガンお雪の結婚記念日」に因んでいる。また、お雪の波乱の人生は長谷川時雨の小説(青空文庫で読める)や、脚色されて日本初のミュージカルとして宝塚の演目になった(越路吹雪が主演)。
小坂井澄著
モルガンお雪 (集英社文庫)

参考書は↓ハーフマニア
昭和天皇
(しょうわてんのう)
(1901〜1989)
大正天皇の第一子。名は裕仁(ひろひと)。皇太子時代の1921年から半年間ヨーロッパ諸国に外遊。英・仏・ベルギー・蘭・伊を回った。帰国後に病弱だった大正天皇の摂政となり、1926年12月大正天皇崩御とともに、124代天皇となり元号が昭和と改められた。明治維新以来、大日本帝国憲法では「大日本帝国は天皇を君主とする君主制」であり、天皇は「国家統治ノ大権」であり「国の元首」、「統治権の総攬者」、立法権まで持つ「主権者」であった。また、国家政策により多くの日本国民にとって天皇=現人神(あらひとがみ)であり、不可侵の存在であった。特に昭和に入ってからはそれらの傾向が強く、日中戦争(満州国の設立・運営)、朝鮮統治、太平洋諸国への進出など海外政策を進める軍部・政府にとって国民の意思統一を計る上で「天皇」が常に利用されたという説、逆に特別な権限を唯一持っているはずの「天皇」が、もっと強硬に欧米・アジア諸国への干渉を拒めば、大戦中にあれほどの犠牲を生じなかった、さらに「天皇制」そのものを疑問視する説も今もなお根強くある。特に日本軍が多くの兵や市民・捕虜を虐待したとされる英米仏蘭ら欧米の諸国、「朝鮮併合から日中戦争〜太平洋戦争(第二次世界大戦)」の一連の行為を「日本の侵略行動」とする北朝鮮を筆頭とするアジア諸国には昭和天皇の戦争責任を問う声は今だに聞こえる。1941年12月8日に米英両国に宣戦の詔書、1945年8月15日に終戦の詔書をラジオ放送。また、終戦直後、天皇は米国大使館のマッカーサー元帥を訪ね、「(戦争)責任を進んで引き受ける」意志を伝え、マッカーサーはその態度に感動したとされる。その後1947年の新憲法発布に伴い政治の権限を持たない「日本国民統合の象徴」となり現在に至っている。1971年9月、皇后と共に訪欧。「天皇」としてはこれが史上最初の外国訪問だった。デンマーク、ベルギー、仏、英、蘭、西独、スイスを親善訪問。各地で大歓迎を受けた。英国ではエリザベス女王のお迎えを受けバッキンガム宮殿まで馬車行列を行っている。1989年1月7日に崩御。「皇室」は世界で最も古い現在まで続く王族として知られるが、歴代天皇の中で最も長寿で在位期間が長かった。東京都八王子市の武蔵野陵(むさしののみささぎ)に葬られ、また誕生日4月29日は国民の祝日「天皇誕生日」→「みどりの日」→「昭和の日」となっている。生物学の研究者としても国際的に知られ、『相模湾後鰓類図譜』、『那須の植物』など17冊の著作があり、専門は粘菌(変形菌類。後に南方熊楠の進講を受けている)、ハゼの分類、腔腸動物(クラゲやイソギンチャクなど)などで、学名にHirohitoの名がついた新種のヒドロ虫類は多数。東京・昭和天皇記念館にはご遺品などが展示されている。


波多野勝著
裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記

山本 七平著
裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか (Non select)

黒田勝弘、畑好秀編・著
昭和天皇語録 (講談社学術文庫)

木戸幸一著
木戸幸一日記 上巻 (1)

入江相政著
昭和天皇とともに―入江相政随筆選〈1〉

寺崎英成著
昭和天皇独白録 (文春文庫)

岡本喜八監督
日本のいちばん長い日 [DVD]

太陽
松岡洋右
(まつおかようすけ)
(1880〜1946)
山口出身の外交官。1893年)に留学のため渡米、オレゴン州立大学法学部卒。1902年に帰国、明治法律学校(明治大学の前身)に通いながら帝大入学を目指すが、そのまま外交官試験に主席合格となり、外務省に入った。領事官補として上海など主に中国に勤務。パリ講和会議随員、上海の総領事を歴任し、その卓越した英語力と弁舌で名を成すが41歳で外務省を退官、政友会の代議士になる。語学力と外交手腕が買われ満鉄の理事、総裁を歴任。その後満州事変問題にからんでリットン調査団の報告書が国際連盟で採決された時に首席代表として国際連盟を脱退した。1940年には近衛内閣の外務大臣となり対米強硬策を主張し日独伊三国同盟を締結、また日ソ中立条約を結ぶなど(後独ソ開戦で破綻)し、対欧米戦争を推進した。戦後はA級戦犯として東京裁判で裁かれたが審理中に肺結核が悪化し病死した。
東条英機
(とうじょうひでき:東條英機)
(1884〜1948)
陸軍中将の子として東京に生まれる。陸軍大学校を卒業。1919年、駐在武官としてスイス、1921年にはドイツに駐在。帰国後は陸軍大学校の教官、参謀本部編制課長、陸軍省軍事調査部長、関東軍参謀長などを歴任。1940年、近衛文麿内閣の陸軍大臣として英米との開戦を主張。翌1941年10月に総理となり、陸軍大臣・内務大臣を兼務。昭和天皇のご意向を受けて戦争回避を図り来栖野村を特使としてアメリカに送り交渉に当たったが、結局決裂し、12月8日にはハワイ真珠湾を攻撃、アメリカに宣戦布告し太平洋戦争に踏み切った。その後商工大臣、軍需大臣・参謀総長などを兼務し独裁体制を固めるが、1944年、敗戦が濃くなると国内の不満が高まって総辞職に追い込まれた。敗戦後は拳銃で自殺を図るが一命をとりとめ、東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受け、絞首刑となった。明晰な頭脳と優れた処理能力から「カミソリ東条」という異名があった。スピルバーグ監督の『1941』ではダンスホールの床にヒトラー、ムッソリーニとともにトージョーの似顔絵が描かれていた。
保阪正康著
東條英機と天皇の時代 (ちくま文庫)

東条由布子著
祖父東条英機「一切語るなかれ」 (文春文庫)

松田十刻著
東条英機―大日本帝国に殉じた男 (PHP文庫)

佐藤早苗著
東条英機「わが無念」 (河出文庫)
山本五十六
(やまもといそろく)
(1884〜1943)
新潟県長岡市生まれ。旧越後長岡藩士・高野貞吉が56歳の時の子のため「五十六」と名づけられる。後に旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する。海軍兵学校を経て海軍大学を卒業。少尉候補として日露戦争に参加、手の指を失う大怪我を負う。海軍の命でアメリカ駐在、ハーバード大学に留学、約2年後に帰国すると海大の教官を経て欧米視察、米大使館付武官など海軍の要職に就くなど、海軍きっての外交通であった。1928年航空母艦赤城艦長。翌1929年にはロンドン軍縮会議予備交渉の代表となり、ここで山本の名は内外に知られるようになった。欧米との対立が顕著になった1939年に連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に就任。真珠湾攻撃の電撃作戦を構想、作戦を指揮し成功に導いた。マレー沖海戦では戦闘機が戦艦を沈没させるという作戦で大きな戦果を挙げるものの、1942年のミッドウェイ海戦では大敗を喫する。敗戦の色が濃くなり始めた1943年、前線視察のため戦闘機でラバウルからブーゲンビル島に向かう途中米軍機に撃墜され戦死。その死は1ヶ月間も秘匿されたが後に公表。元帥の称号が贈られ日比谷公園で国葬された。ハーバード大時代は、テキサスの石油田やデトロイトの自動車工場を見学するなどアメリカを広く見聞。アメリカの国力を知り尽くした人だった。こうした体験から早くから石油の重要性、航空機による戦闘時代の到来を予見し、大和など大型戦艦の建造には反対していた。また、日独伊三国同盟には終始反対の立場。アメリカとの開戦もよく知られているように先制攻撃をした後はすぐに和平交渉を行いアメリカを牽制する方針であった。近衛文麿の日記に米攻撃の可能性について山本の「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」発言は有名。冷静かつ豪胆な戦術家であり、・確固たる信念・日本史上屈指の統率力の持ち主。その人柄は質実剛健で人情に篤く、部下思いであった。教育家としても優れ、多くの部下・国民から慕われた。部下の殉職にはたびたび卒倒するほど慟哭したことや、また赤城艦長の時、滑走路をオーバーランしそうになった戦闘機の尾翼にしがみついて停め部下を救ったというエピソードがある。黒澤明は『トラ!トラ!トラ!』の映画化の際、こうした山本の人柄に惚れこみ、彼の人物描写をメインに脚本を書いている。「悲運の名将」「戦争嫌いの軍人」は"判官びいき"に近い共感と傾倒があり、現代でも日本人の心を捉えて放さない。

阿川弘之著
山本五十六(新潮文庫)

半藤一利著
山本五十六

工藤美代子著
海燃ゆ―山本五十六の生涯


↑では三船敏郎が、ハリウッド映画『パール・ハーバー』ではマコ・イワマツが山本を演じた。
広田弘毅
(ひろたこうき)
(1878〜1948)
福岡生まれ。東京帝国大法学部卒後外務省に入り、清、イギリス、アメリカの大使館の外交官や、駐蘭大使、駐ソ大使を歴任。その間に日ソ漁業、東支鉄道買収交渉などを行い、外交手腕を揮った。1933年斉藤実内閣の外相、次いで岡田内閣でも外相を務め、1936年、二・二六事件後に首相に就任。官僚を中心とする「庶政一新」の政綱を掲げたが、軍部の力に押されて軍部大臣現役武官制の復活や日独防共協定を結ぶなど米英との対決姿勢を固めた。その後近衛内閣の外相やタイ国大使など、太平洋戦争中の外交政策の要人として南方海洋への進出、「蒋介石の国民政府相手とせず」の強硬策など防共協定などの国策をとり、戦争政策を推進した。しかし広田は一貫して対外政策として「和平」を志していたが、結局強力な軍部の力に抑え込まれていたとされる。戦争末期には駐日ソ連大使マリクを仲介とする和平交渉を試みたが、すでに時は遅くソ連は対日戦争を決めていたため失敗に終わった。戦後の東京裁判でA級戦犯となり文官で唯一絞首刑になった。
野村吉三郎
(のむらきちさぶろう)
(1877〜1964)
和歌山出身。上京して海軍兵学校に入り、以後「千歳」などの各艦航海長、海兵教官、巡洋艦「八雲」艦長など海軍軍人としての経歴を歩む。オーストリア、ドイツ駐在を経て、軍務局員、駐米日本大使館附武官・パリ講和会議とワシントン軍縮会議の全権団に随員として加わるなど外交に腕を揮った。1926年には軍令部次長となり、以後練習艦隊司令官、呉・横須賀の両鎮守府司令長官などを歴任した。第3艦隊司令長官として上海事変に参加したが上海天長節爆破事件に遭遇し片目を失った。その後海軍大将に昇進するが1937年、海軍を退役して学習院院長となった。国際法の権威であり、1939年には阿部内閣において外務大臣に抜擢され、旧知の仲だったフランクリン・ルーズベルト大統領との交渉が期待された。1941年には来栖三郎とともに駐米大使となって悪化していた日米関係の修正に当たった。戦争回避のため最後まで尽くしたが、ハル国務長官らとの交渉はこじれ、日本はハルノートを最後通牒と受け取り真珠湾攻撃を開始、野村らの努力は実らなかった。帰国後は枢密顧問官となるが、戦後はしばらくの間公職追放となる。1953年日本ビクターの社長に就任、会社再建に尽力した。その後政界に復帰、参議院議員となって防衛問題などを担当した。
尾塩尚著
駐米大使野村吉三郎の無念―日米開戦を回避できなかった男たち

豊田穣著
悲運の大使 野村吉三郎 (講談社文庫)

須藤真志著
ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦 (文春新書)
来栖三郎
(くるすさぶろう)
(1886〜1954)
神奈川県出身。東京高商(現・一橋大学)領事科卒。1909年外交官及び領事官試験に合格し外務省に入り、中国、米国勤務の後、チリ、ギリシア臨時代行公使、ペルー公使を経て、1932年通商局長、ベルギー、ドイツ各大使を歴任。ドイツ大使時代には日独伊三国同盟の締結交渉に当たった。1941年、東條英機内閣が成立、東郷茂徳外相が米国通であった来栖に期待し、戦争回避を目的に日米交渉に当たるため、遣米特命全権大使として特派(野村吉三郎大使の支援)されたが、結局相手にされず(謀略説もあるが)太平洋戦争開戦となってしまった。翌1942年に交換船で帰国。戦後はGHQにより公職追放された。ハル国務長官との交渉や開戦に至った経緯は著書『泡沫の三十五年―日米交渉秘史』、『日米外交秘話』に詳しい。妻は米国勤務中に知り合ったニューヨーク出身の米国人アリス。
泡沫の三十五年―日米交渉秘史 (中公文庫BIBLIO)

参考書は↓ハーフマニア
ハーフの息子の良は太平洋戦争中、戦闘機乗りになったが同僚の機のプロペラに巻き込まれて死んだ。靖国に祀られている。
重光葵
(しげみつまもる)
(1887〜1957)
大分県出身。東京帝大卒後外務省に入り中国、ソ連、イギリスなどの各国大使を歴任。満州事変・上海事変などを外交で解決しようと試みるが、1932年、中国・上海で朝鮮の独立運動家・尹奉吉の爆弾テロに遭い右足を失う重傷を負った。その後広田弘毅外相の外務次官などを経て、1943年東条英機内閣、小磯国昭内閣の外相となる。太平洋戦争敗戦後初の東久邇宮内閣の外務大臣(全権)として米艦ミズーリ号上で連合国への降伏文書に調印した。1947年、東京裁判でA級戦犯となり禁固7年の刑を受けた。巣鴨拘置所に収監されている間、満州事変から終戦に至るまでの日本の動きを、回顧録『昭和の動乱』として執筆した。後に赦されて政界に復帰、改進党の総裁を務める。その後鳩山内閣で再び外務大臣(副総理兼務)となり、1956年の国際連合加盟に尽力。国連総会で「日本は東西の懸け橋となる」という有名な演説を残した。実に第68・69・72・82・83・84代の外務大臣であり、それぞれ内閣の性格は異なるが常に世界と和平を目指して東西に奔走し活躍した。東京裁判で戦犯となったのはソ連が有罪を強硬に主張したからで、これはソ連が北方領土占領を誤魔化すために当時駐ソ大使だった重光を陥れようとするものだったといわれる。その影響か重光は北方領土返還についても尽くしたが結局叶わなかった(これは現在まで同じ状況)。その後狭心症の発作で死去(服上死の噂あり)。いずれにせよ昭和を代表する優れた外交官である。
昭和の動乱〈上〉 (中公文庫BIBLIO20世紀)

重光葵―外交回想録 (人間の記録 (7))

渡辺行男著
重光葵―上海事変から国連加盟まで (中公新書)
吉田茂
(よしだしげる)
(1878〜1967)
東京生まれ、1906年東京帝大政治科を卒、外務省の官僚となる。外交官・領事館付の役人として天津やロンドンに在任し、後には駐伊大使、駐英大使を務めた。戦後まもなく外務大臣を歴任、その直後1946年には自由党総裁となり第1次〜5次までの内閣を組織した。マッカーサーと連携し、反共親米政策を徹底的に推進し、また自衛力の増強を計り、1951年のサンフランシスコ会議の全権として対日平和条約・日米安全保障条約に調印した。側近には池田隼人や佐藤栄作といった官僚出身者を中心とする国会議員たちを据え、俗に「吉田学校」と呼ばれた集団を組織。「ワンマン」「独裁的」な手腕を振るった。特に「バカヤロー解散」は有名である。死去の際は国葬されたが、これは皇族以外では戦後唯一である。ロンドンの有名なマダム・タッソーの蝋人形館には彼の人形が展示されていた(僕が行った時、他の日本人は千代の富士だけだった)。英文学者・随筆家の吉田健一は息子。政治家・麻生太郎は孫である。
大下英治著
小説 吉田茂―戦後復興に賭けたワンマン宰相 (学研M文庫)

ジョン・ダワー
吉田茂とその時代(中公文庫)

戸川猪佐武著
小説吉田学校(人物文庫)
これを森田司郎監督が映画化した『小説吉田学校
白洲次郎
(しらすじろう)
(1902〜1985)
兵庫県芦屋の裕福な貿易商白洲商店の次男として生まれる。名門旧制第一神戸中学校を卒業後、17才でケンブリッジ大学に留学。英語と英国流のマナー・着こなし・コミュニケーションなどを身につける。1928年、26才の時、白洲商店の倒産を機に帰国。その後は英字新聞記者を経て貿易関係の仕事で世界中を飛び回る生活を送る。この頃伯爵の娘正子と結婚。また駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得て、イギリス大使館に出入りし、近衛文麿のブレーンなどを務めた。しかし太平洋戦争開戦とほぼ同時に東京町田の農家を購入、武相荘(ぶあいそう)と名付けて住み、カントリー・ジェントルマンを自称し半農の隠遁生活に入る。
終戦後の1945年、外務大臣に就任した吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任。卓越した語学力と原理原則(プリンシプル)に徹する強い姿勢でGHQと対等に接した。サンフランシスコ講和条約締結の場では、吉田茂が英語の演説原稿を用意していたのに激怒、直前に巻紙に書いた日本語に差し替えさせ、それを羽織袴姿で読み上げるように仕向けた。その後吉田内閣では初代貿易庁長官も努め、通産省創設にも腕を振い、1954年まで外務省顧問も務めるが、吉田が引退するのと同時に政治の世界から身を引き、実業界に戻り、東北電力会長・大沢商会会長等の職務を歴任した。
長身でハンサム。一流のダンディズムを持ち、若い頃からの自動車好きで高級外車を乗り回し、ゴルフの名手でもあり、グルメなど幅広い趣味と深い教養を見につけていた。その粋な姿勢と日本人としての誇りを持った生き方は妻正子とともに現在空前のブームを巻き起こし、多くの出版物の他、NHKのドラマや民放で数々の特集番組が組まれている。日本人で初めてジーンズを穿いた人とも伝えられている。


北康利著
レジェンド 伝説の男 白洲次郎

青柳恵介著
風の男 白洲次郎 (新潮文庫)

白洲次郎の流儀 (とんぼの本)

須藤孝光著
1946白洲次郎と日本国憲法
杉原千畝
(すぎうらちうね)
(1900〜1986)
岐阜県生まれ。早大を中退し1919年、外務省の官費留学生として中国ハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。1924年、外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年に満州国外交部事務官に転じる。1937年にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで第2次世界大戦勃発後の1939年にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。1940年になるとドイツ・ナチスのユダヤ人迫害から逃れた難民たちが日本領事館に通過ビザを求め押し寄せた。杉原はユダヤ人を救うべく外務省へ実情を報告しビザの発給の許可を願い出るが、当時日独間は同盟関係にあったため日本政府はドイツ政府の手前ユダヤ人救済には反対の立場であり、杉原には許可しなかった。しかし杉原は独自の判断で妻の幸子と共にビザや渡航証明書を発給、6000人ちかいユダヤ人を国外に脱出させ命を救った。こうした功績で「日本のシンドラー」と呼ばれる。リトアニアを退去後はヨーロッパ各地を領事として転々とするが、日本の敗戦とともにソ連に拘束され収容所に送られた。1947年に帰国するが外務省を辞し、以後語学を活かした貿易業などに転じた。1985年、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞した。
佐藤栄作
(さとうえいさく)
(1901〜1975)
山口生まれ。東大法学部卒後、鉄道省に入り、運輸省自動車局長、大阪鉄道局長、鉄道総局長官を経て、戦後運輸次官となる。1948年、吉田茂内閣で官房長官になり、翌年に参議院議員に当選。政治家として本格的な活動を始め、自由党政調会長、幹事長、また吉田内閣の下で郵政大臣、建設大臣などを歴任。自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚したが、逮捕寸前に犬養健法相による検察指揮権の発動により逮捕を免れた。池田隼人とともにいわゆる「吉田学校」の教頭に相当する役割を演じ、自由民主党の結成にも参画、実兄岸信介の内閣では大蔵大臣、池田内閣では通産大臣など要職を務めた。1964年、池田の後を継いで総理大臣となり、7年8ヶ月の長きに渡り政権を執った。その間、韓国との外交において日韓条約、米国との交渉で小笠原諸島・沖縄返還などを実現した。1967年、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の、いわゆる非核三原則を表明し日本の平和国家としてのあり方や平和外交の基本姿勢を確立した。これが評価されて1974年、ノーベル平和賞が授与された。しかし最近になって外交文書から、1965年アメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談で、ジョンソン大統領やマクナマラ国防長官に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安全保障条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが明らかとなり問題となった。
1972年の辞任会見の際には、新聞報道が「偏向している」ことを理由に新聞記者を追い出し、一人テレビカメラの前で会見を行なった。
佐藤栄作日記〈第1巻〉

堀越作治著
戦後政治裏面史―「佐藤栄作日記」が語るもの

岩川隆著
忍魁・佐藤栄作研究 (徳間文庫)

山田栄三著
正伝 佐藤栄作〈上〉

湯川秀樹
(ゆかわひでき)
(1907〜1981)
地質学者・小川琢治の子として東京に生まれる。兄・小川芳樹は後に金属工学者、貝塚茂樹・東洋史学者、弟小川環樹・中国文学者という学者一家であった。父が京都帝大教授となったため幼い頃に京都に移り住む。1929年、京都帝国大学理学部物理学科を卒、1932年には湯川家の婿養子となり「湯川」姓を名乗る。1934年から翌年にかけて中間子理論の研究を発表し、中間子の存在を予言。1939年には教授となり理論物理学の第一人者として世界的に名を知られるようになった。1943年、最年少で文化勲章受章。戦後はアメリカに招かれて1948年にプリンストン高等研究所客員教授、翌年コロンビア大学客員教授就任、同年10月に日本人として最初にノーベル賞(物理学賞)を受賞した。弱冠42歳であった。その後素領域理論を提唱したほか、核兵器禁止のラッセル・アインシュタイン声明に応じて科学者京都会議を主宰。1961年には世界連邦世界協会長を務めた。京都大学基礎物理学研究所初代所長、京大・阪大の名誉教授となり、多くの物理学者を指導・育成に尽くした。「中間子という概念」は博士が寝ていた時に思いつき、枕元に置いてあったノートに書き付けたという伝説がある。
原子核の長さの単位10の-15乗メートルを湯川博士に因んで永く「ユカワ」という単位名が国際的に用いられていたが現在は「フェムトメートル」に変えられた。
旅人―ある物理学者の回想 (角川文庫ソフィア)

目に見えないもの (講談社学術文庫 94)

NHK映像ファイル 「あの人に会いたい」DVD-BOX

中野不二男著
湯川秀樹の世界―中間子論はなぜ生まれたか (PHP新書)
朝永振一郎
(ともながしんいちろう)
(1906〜1979)
西洋哲学の教授・朝永三十郎の子として東京に生まれる。京都大理学部物理学科卒。湯川秀樹とは中学から大学まで同期だった。仁科芳雄の誘いで理化学研究所に入り中性子や陽電子、核力、宇宙線などの研究を始める。後、1937年、ドイツのライプチヒに留学、ハイゼンベルクの研究グループで原子核物理学や量子場理論を学ぶが、第二次大戦の勃発により2年で帰国。1941年、東京文理大(後東京教育大。現・筑波大)の教授を経て戦後には同大学長になる。1943年、超多時間理論を完成。さらにこれを発展させて1946〜47年に「くりこみ理論」を発表。量子学と相対性理論を統一したものとして高く評価された。1952年、46歳で文化勲章受賞。1965年、「電子電磁力学の基礎的研究」でジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞。核廃絶を訴えるパグウォッシュ会議への参加や世界平和アピール七人委員会の1人として核兵器廃絶運動に尽力した。
物理学とは何だろうか〈上〉 (岩波新書)

量子力学と私 (岩波文庫)

科学者の自由な楽園 (岩波文庫)
伊藤道郎
(いとうみちお)
(1904〜1988)
東京神田生まれ。父は銀座の服部時計店や旧博品館などを設計した建築士・伊藤為吉。オペラの声楽家を目指し三浦環に師事、1912年、19歳で渡独するが途中で舞踏家に転じE.J.ダルクローズについて舞踏を学んだ。1914年、第1次世界大戦の混乱を避けてイギリスに移り、アイルランド出身の詩人・劇作家ウィリアム・バトラー・イエーツに日本の能を紹介、共に研究し『鷹の井戸』の創作を助けた。また、舞台音楽をホルストに依頼、『日本組曲』(Japanese Suite )として創作した。1916年にはアメリカに渡り、ニューヨーク・ブロードウェイなどで第一線の舞踏家・振付師として活躍した。1931年に一時帰国するが、世界的な舞踏家として名が知られていた。ニューヨーク時代にアメリカ人女性と結婚、2人の息子をもうけたが日米開戦とともに抑留。1943年(昭和18年)にアメリカ国籍の家族を残し、日米交換船で日本に帰国した。戦後はGHQの推薦でアーニーパイル劇場(米軍兵士のためのレヴュー劇場・東京宝塚劇場)の演出家として、後進の指導に当たった。舞台美術の大家・伊藤熹朔、演出家兼俳優・千田是也は弟。また俳優のジェリー伊藤は次男。
藤田富士男著
伊藤道郎世界を舞う―太陽の劇場をめざして (新風舎文庫)

『上海バンスキング』の作者、斎藤憐の著
アーニー・パイル劇場―GIを慰安したレヴューガール

イサム・ノグチ
(1904〜1988)
日本名は野口勇。詩人野口米次郎、小説家レオニー・ギルモアの子としてロサンゼルスに生まれる。2歳から14歳まで日本で暮らす。1918年、母の意志で米国に渡り、ニューヨークのコロンビア大学医学部に入学するが芸術家を目指しレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の彫刻クラスに通った。1927年、奨学金を得てパリに留学。彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに師事。その後ニューヨークに戻りアトリエを構える。太平洋戦争中は日系人収容所に収監された。戦後本格的に芸術活動を開始、多彩な素材を使い抽象彫刻を追求。1947年に帰国し高松にアトリエを立てたが世界中で制作をした。代表作にマンハッタン広場、ミュンヘンの野外彫刻、パリ、エルサレムの庭園彫刻、パリ、ユネスコ本部の日本庭園、広島・平和大橋などのデザインを手がけた。建築家・丹下健三、猪熊弦一郎、華道家・勅使原蒼風、陶芸家・北大路魯山人、芸術家・岡本太郎らと交遊を持ち、モニュメント、肖像彫刻、舞台美術、建築、家具・インテリア、陶芸など幅広い活動で「ミケランジェロの再来」と呼ばれ世界的に知られた。1955年には、女優山口淑子と結婚(後・離婚)。香川県高松市、ニューヨークのロング・アイランド・シティにはイサム・ノグチ庭園美術館がある。

参考書は→ハーフマニア


ドウス昌代著
イサム・ノグチ〈上〉―宿命の越境者 (講談社文庫)

マガジンハウス編
Casa BRUTUS特別編集 イサム・ノグチ伝説 (Magazine House mook)

ヒロ・ナリタ監督
イサム・ノグチ [DVD]
小平邦彦
(こだいらくにひこ)
(1915〜1997)
東京生まれ。幼い頃から数学の天才ぶりは有名で、東京帝国大学理学部数学科、さらに物理科を卒業。1952年東大教授となり、その後ヘルマン・ワイルの推薦で米・プリンストン高等科学研究所に招かれて渡米。当時頭脳流出第一号と呼ばれた。ジョンズホプキンス大、プリンストン大、ハーバード大の研究員・教授を経てスタンフォード大教授となる。位相解析の権威で調和解析と代数・幾何を結びつけ、複素多様体論の確立を成した。数学の世界において「小平次元」「小平消滅定理」「小平・スペンサー理論」などに名を残す。1954年、国際数学者会議において数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を日本人として初めて受賞(現在まで三人しか受賞していない)。1957年には文化勲章を受章。後に東大名誉教授、学習院大教授などを務めた。数多く残されたエッセイも絶品の面白さで数学に興味のない人にもお薦め。ピアノの名手でもあった。
広中平祐
(ひろなかへいすけ)
(1931〜)
山口生まれ。京都大学理学部を卒業後、代数幾何学を専門に欧米で研究生活を送り、1960年にハーバード大で博士号取得。ブランダイス大の講師・助教授・准教授を経て1964年コロンビア大学教授に就任。その後ハーバード大学教授となる。「代数的多様体の研究」で日本学士院賞、「複素多様体の特異点に関する研究」でフィールズ賞を受賞。数学史上不滅といわれる理論を確立した。1975年には文化勲章を受章。現在、京都大、ハーバード大学等の各名誉教授、数理科学振興会理事長などを務める。夫人は環境庁長官を務めた広中和歌子。
生きること学ぶこと (集英社文庫)

可変思考 (光文社文庫)
江崎玲於奈
(えさきれおな)
(1925〜)
大阪市生まれ。この時代の人の中では一風変わったこの名前は、建築士だった父から「レオ(獅子)のように強く男らしく、世界に通用する男になってほしい」という願いがこめられている。1947年東京帝大理学部を卒業後、川西機械製作所に入社し真空管の研究を行う。1956年、東京通信工業株式会社(現在のソニー)に転職、1957年ソニー研究室で半導体の研究中に「トンネル効果」と呼ばれる現象を発見。次いでその理論的解明とそれを実用化した「エサキダイオード」を発明した。当初日本での反応は冷たいものであったが、ブリュッセルで開かれた国際会議でトランジスタ研究の先駆者ウィリアム・ショックレーが絶賛。江崎はコンピュータの発展に大きく寄与する立役者として世界的な注目を浴びた。1959年には仁科記念賞を受賞。1960年にアメリカIBM社の研究員として招かれ渡米。「頭脳の流出」として大きな話題を呼んだ。1973年にノーベル物理学賞を受賞、翌年には文化勲章を受章した。日本学士院会員、教育改革国民会議座長、筑波大学、芝浦工大の学長を経て現在横浜薬科大学の学長を務める。
江崎玲於奈著
限界への挑戦 (私の履歴書)

創造力の育て方・鍛え方
西澤潤一
(にしざわじゅんいち)
(1926〜)
宮城県仙台市生まれ。東北大電子電気工学科卒業後、同大の電気通信研究所に入り、主に半導体の研究を開始、PiNダイオード、静電誘導トランジスタ、光通信の基本三要素の概念確立を成した。現在世界で使用されている光通信の概念を1950年代にすでに発明・開発し、世界で知られる権威である。 高輝度発光ダイオード(赤、緑)など多数の独創的発想による発明がある。「ミスター半導体」、「光通信の父」とも呼ばれる。 IEEE(米国電気電子学会・電気・電子技術の権威を持つ世界の最高学会)は彼の名を冠したJun-ichi Nishizawa Medalを設けている。 1989年、文化勲章受章。母校東北大の学長、岩手県立大学長を歴任、現在は首都大学東京学長を務めるなど、教育者としても大きな功績を残している。NHKのドキュメンタリー『電子立国』に出演していた氏は決して学者然とせず気さくな感じの方で、これを見て僕は一度でファンになった。早くノーベル賞を差し上げたい。著書は専門の電子工学以外に教育関連の本など多数ある。

NHKスペシャル 電子立国 日本の自叙伝 DVD- BOX 全6枚セット
その他このページを作成するのに用いた総合的な資料
「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」

塩崎智著
アメリカ「知日派」の起源―明治の留学生交流譚 (平凡社選書 (211))

小山騰著
破天荒明治留学生列伝―大英帝国に学んだ人々 (講談社選書メチエ)

松邨賀太著
幕末に学んだ若き志士達―日本留学生列伝〈2〉

三省堂編修所編・著
コンサイス日本人名事典

岸宣仁著
「異脳」流出―独創性を殺す日本というシステム

朝尾直弘著
日本史辞典

佐道明広著
人物で読む現代日本外交史―近衛文麿から小泉純一郎まで

佐道明広、服部龍二、小宮一夫編
人物で読む近代日本外交史―大久保利通から広田弘毅まで

日本史広辞典編集委員会編・著
日本史人物辞典

田中英道著
日本史の中の世界一


外国に渡った日本人(古代〜幕末)日本と関わりの深い外国人明治期に来日した外国人



参考書一覧

参考書パート2

特集:
外国人が見る日本と日本人(前編)

特集:
外国人が見る日本と日本人(後編)

参考書パート4

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